世界史のなかの満洲帝国と日本 (WAC BUNKO)

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  • ワック
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784898316351

作品紹介・あらすじ

「王道楽土」とまで呼ばれた、今はなき満洲帝国-。なぜ日本人は満洲にむかったのか?それは、日本と満洲の関係だけでなく、清朝中国、モンゴル、朝鮮、ロシアそれぞれの思惑と利害を眺めてこそ見えてくる。「歴史に道徳的価値判断を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである」と語る著者による、歴史学的な位置づけの「満洲」入門書。

感想・レビュー・書評

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  • 淡々と史実に基づいたことが書かれていた。
    古代の中国の部族名がとにかく難しかった。
    何度も戻って読み直してしまった…

  • 確かに存在した満洲国。日本人として理解しなければならない建国前夜。今後の研究と満洲国史の教育がまたれる。

  • 「世界史の中の満洲帝国と日本」読了!
    満洲帝国の成り立ちとその成果を、筆者の思想や概念を極力外し、客観的に述べた良書と思う人がいる一方、左向きの人からすれば偽満洲に満ちたトンデモ本となるかもしれない。
    戦前の日本の行為はすべて侵略で、それを実行した日本人は鬼畜のような人々であった、、、という見方は東京裁判史観のような偏った見方であろう。
    あの当時、世界では実際何が起き、行われていたのかを冷静に見定めるには持って来いの本。
    著者も述べているが、今の自虐史観の強い日本の歴史学の分野では、少数派的解釈なのだろうけど、こちらの方がまともな感じがする。

  • かつて満州国があったエリアは現在では東北地区と呼ばれているようですが、満州国の成り立ちについて殆ど知識がありませんでしたので、この本を手に取ってみました。

    この本では日本がそのエリアに関わる前からの中国の歴史について詳細に解説されています。現在の首都である北京は元の時代からの首都と言われていますが、最初の位置付け=避寒地キャンプ地(p80)を知ったのは興味深かったです。

    日本が太平洋戦争後に満州から撤退して財政的に楽になったという話は聞いたことがありましたが、この本を読むことで、当時の日本がいかに満州国にお金や人(終戦当時で200万人以上が在住)に投資していたことが分かりました。

    以下は気になったポイントです。

    ・歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない(p4)

    ・かつての満州帝国の領土は、いまの中華人民共和国の東北三省(遼寧、吉林、黒龍江省)に、内蒙古自治区の東部と河北省の東北部を加えた部分にある(p24)

    ・東夷西戎南蛮北狄において、夷は低と同音で低地人で農耕と漁労を生業とした人、戎は草原の遊牧民、狄は行商人、蛮は焼畑農耕民の意味である(p36)

    ・中国の都市は、すべて城壁で囲まれているが、いかなる種族の出身者でも、都市に住み着いて市民の戸籍に名を登録して、市民の義務である、夫役と兵役に服せば中国人とみなされた、つまり、役人と兵士と商工業者が中国人(p38)

    ・始皇帝が初めての肯定であり、厳密に言えば、歴史は2200年あまり(p52)

    ・倭国は、663年に白村江で全滅した後に、それまで交易に便利な港の近くにあった難波京から、安全な内陸の近江に都を移して、668年に中大兄皇子が天智天皇として大津で即位した(p61)

    ・天智天皇の即位(668年)に際して、国号を「日本」とさだめて天皇号を作り出した(p64)

    ・遊牧民の相続は原則的に均分相続で、年長の息子から順番に結婚して、財産となる家畜を親から分けてもらい独立する、末子が両親と同居してその面倒を見て親の死後に財産を引き継いだ(p79)

    ・元朝の歴代皇帝にとって、本拠地はあくまでもモンゴル高原で、北京に新たに建設した大都は、冬の避寒キャンプ地にすぎなかった、大都は補給基地で漢人を統治する行政センターであった(p80)

    ・フビライは文永・弘安の役後も日本征討をあきらめずに何度も日本遠征軍を編成したが、そのたびに元朝の南部や北部で反乱が起きて実行できなかった、元・高麗連合軍で完全鎮圧されたのは、1292年でありフビライは日本遠征の命令をしたが、1294年に病死したため取りやめになった(p87)

    ・高麗は、朝鮮と和寧の2つの候補を準備して、洪武帝に選んでもらった、朝鮮は前漢の武帝にほろぼされた王国の名前(p88)

    ・アヘンは17世紀オランダ支配下のジャワ島から台湾に伝わり、マラリアの特効薬としてタバコに混ぜて吸飲した、1729年にアヘン禁止令を出したときにはポルトガル商人、18世紀末にはイギリスの東インド会社が取り扱った、中毒者は40万人(p117)

    ・1839年に着任した林則徐は、広州商人から2万箱のアヘンを没収して、20日余りかけて塩水・石灰と混ぜて焼却、それに対して1840年にアモイを攻撃したのがアヘン戦争(p118)

    ・1875年に、日本とロシアは樺太千島交換条約を結んで、樺太に対する権利をロシアへ譲渡する代わりに、全千島列島が日本領となった(p126)

    ・1871年に結ばれた平等条約である「日清修好条規」は、7世紀(668年)以来、天皇と中国皇帝の間に正式に結ばれた条約(p133)

    ・三国干渉によって日本が遼東半島を返還した後に、ロシアは東清鉄道敷設権を獲得、旅順・大連、ドイツは膠州湾、イギリスは威海衛・九龍半島、フランスは広州湾を租借した(p138)

    ・日露戦争開戦時の日本側の陸軍は、ロシア陸軍総兵力の約9%(p151)

    ・日露戦争における日本の勝利がきまった1905年9月に、中国で1000年以上続いた科挙の試験が廃止、1906年には立憲政治の準備の詔勅が出された(p175)

    ・1934年に満州帝国が成立したあとの9ガウt、ローマ法王庁が商人した後、イタリア、スペイン、ドイツが承認して最終的には15,事実上承認が23カ国であった(p223)

    ・60万人の勾留者のうち、約1割にあたる6万人が、極端に悪い食糧事情のなかで重労働によって亡くなった(p264)

    ・終戦当時、満州在住の日本人人口は軍人を除いて、約155万人、そのうち死亡者は17.6万人、在留邦人の65%にあたる101万人が1946年10月末までに民間の力によって内地へ引き上げた(p267)

    2011/1/10作成

  • 「歴史に道徳的価値判断を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである」と語る宮脇氏の言葉通り、善悪にとらわれることなく、どこで、いつ、なにが起こったのかが客観的に書かれています。

    私は二十代ですが、同年代くらいの人はもう、満洲と聞いてもなんの事か分からない人が少なくありません。
    満洲は、このまま忘れ去られてしまってはいけない歴史だと思います。

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著者プロフィール

1952年和歌山県生まれ。京都大学文学部卒、大阪大学大学院博士課程修了。博士(学術)。東京外国語大学・常磐大学・国士舘大学・東京大学などの非常勤講師を歴任。最近は、ケーブルテレビやインターネット動画で、モンゴル史、中国史、韓国史、日本近現代史等の講義をしている。
著書に『モンゴルの歴史』(刀水書房)、『最後の遊牧帝国』(講談社)、『世界史のなかの満洲帝国と日本』(以上、ワック)、『真実の中国史』(李白社)、『真実の満洲史』(ビジネス社)など多数。

「2016年 『教科書で教えたい 真実の中国近現代史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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