「世界史の構造」を読む

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  • Amazon.co.jp ・本 (382ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784900997332

作品紹介・あらすじ

『世界史の構造』刊行以降の思想の深化を踏まえ、3.11大震災・原発事故により新たに直面した状況に対応して、いち早く著者自身によって読み直された『世界史の構造』をめぐる思考の軌跡。大澤真幸、苅部直、岡崎乾二郎、奥泉光、島田雅彦、佐藤優、山口二郎、高澤秀次らとの、『世界史の構造』をめぐる徹底討議七本を併録した、決定版『世界史の構造』リーダー。

感想・レビュー・書評

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  • 「世界史の構造」を読む
    (和書)2011年11月16日 19:49
    柄谷 行人 インスクリプト 2011年10月20日


    「世界史の構造」ついて自分なりの思索をしてきたものと柄谷さんの思索を比較することができて、どういったものを読み取るべきなのか柄谷行人=教師(カントの意味で)のような関係性をみることができるようにも思う。

    すごく良い本でした。

    この本は長池講義で買った。講義も良かったです。

  • KK6a

  • 竹田の批判対象

  • 『世界史の構造』を出版後の対談や、震災後に書き下ろした論文をまとめたものである。この本を読んで、柄谷行人の仕事の中で『世界史の構造』の持つ意義を改めて認識するとともに、やはり一定の違和感は残った。

    違和感のひとつは、その結論だけを見ると、「反原発デモ」「憲法九条護持」「国連重視」と、どこか考え足らずの短絡的な左翼的行動と何ら変わりなく見えてしまうことだ。交換様式Dに向けての議論を追うと、その理屈がわかるのだが、それでも「それが回答なのか」と思う。軍備の放棄がひとつの贈与であるというが、おそらくは軍備放棄の「贈与」としての力を、そのリスクに対してそこまで強い影響力を持つ力と見るのかの見解の相違なのだろう。憲法九条を実行に移すことが世界をリードすることになると主張するが、当たり前であるが、贈与としての軍備放棄は大きな賭けであるとは指摘されている。
    なお、反原発については、原発事故の前から廃棄物の問題に注目していたという。反原発デモへのコミットについては、柄谷さんの立場・見解からは当然のことなのかもしれない。

    また、資本=ネーション=ステートというものが所与のものであって、そこから抜け出すことの必要性と必然性を想定できるかどうかというのが、ひとつ線を引くことができると思う。自分も含めて多くの人が、地域紛争や経済格差という問題を抱えながらも、現行においてはそのシステム内で生きることを前提としているが、そういうことは未来から見ると時代的な制約に過ぎないということはよくあることで、『世界史の構造』においても過去にその例の枚挙にはいとまがない。たとえば、国家に関しては、今はその中にあって当たり前のように考えるが、人びとがその中でいわゆる今あるような「国民」になったのは日本では日露戦争後、中国では毛沢東以降のことだという。

    また柄谷が、2001.9.11の事件を契機としてNAMの解散を考えたというのは初耳だった。変革は、一国に閉じてはやっていけないということだからだということに気が付いたからだという。一国ではできないということだから、「世界同時革命」というものを概念的に構成する必要があるとなる。それは、軍備放棄という一種の贈与による永遠平和という概念と、国連による統制もしくは国連への委譲というものからなる。またその理論的なベースになる、交換様式Dは、普遍宗教として現れるというが、資本=ネーション=国家から「外」に出るものと捉えているのか。近年の「イスラム国」に対してはどう思っているのかについても意見を聞いてみたい気がする。

    対談の中でも、上記のテーマは何度も立ち現れる。

    たとえば国連については以下の通り。
    「国連システムの中に、まったくアソシエーション的でない二つの組織がある。それが安全保障理事会と国際通貨基金です。つまり、そこには、国家と資本が存在するからです。逆にいうと、安全保障理事会と国際通貨基金をアソシエーション的な組織にすることができれば、国家と資本は揚棄されるわけです。その意味で、国連の改革は「世界同時革命」です。しかし、資本=国家は頑固に抵抗するでしょう。もう資本主義の限界は見えているけれど、資本=国家は、なんとか生き延びようとしていくと思います。それに対抗することがこれからの課題ですね」

    また、すでに所与のものと感じているもの(資本=ネーション=ステート)を明るみに出して、それを超える何ものかを求めるのが思想家だとしている。
    「僕は今、社会思想とか社会哲学というものにもし考えるに値するテーマがあるとすれば、資本主義や国家、あるいはナショナリズムに対して、それを越えることが可能か、それに代わるシステムは可能か、という問いだと思っています。この本は、明白に、その問いに立ち向かっている。そして、実際、外が可能だという答えを出している」
    ただ、資本=ネーション=ステートはなぜ乗り越えられなくてはならないのか、ということについては多くは語られない。柄谷にとって自明のことが、自分にとっては自明ではない。

    また、交換様式Dそのもの自体についてもやはりわからないところがある。
    「交換様式Dは、それら(他の交換様式)を解消してとってかわるような何かではなく、それらを互酬性(贈与)によって抑圧する反復的な活動としてあると思う」とあるのだが、具体的な実現可能なイメージとしては出てこない。

    もうひとつの大きな違和感は、情報技術に対する柄谷の姿勢だ。『世界史の構造』において、将来の交換様式を語るに当たり、ほとんど情報技術とその受容に触れられていなかったことに疑問を持ったが、本書にてそれが意図的なものであることを知ることとなった。

    「僕は先端的なテクノロジーの問題について論じませんでした。それはたんに、現在の情勢に触れる余裕がなかったからではなく、「世界史の構造」を見るにあたって、それをテクノロジーの観点から見ることをあえて否定してきたからです。テクノロジーという問題は、人間と自然の関係にかかわっています。だから、重要であることに間違いない。しかし、そこから出発すると、「世界史の構造」は見えない」

    対話の中で岡崎さんや大澤さんが情報技術の影響について話をもっていくにも関わらず、上記のようにそれが重要ではないと柄谷が言うものだから、話としてはその理解の上でしか話ができていない。それは対話において批判的であるべきという観点でも残念だ。情報のシェア、伝達といった問題が交換様式の話において根本的でないとは思えない。明らかにコミュニティや贈与という問題においては、情報技術の発展が与える影響は「そこから出発する」必要はないにしても少なくとも無視できないはずだ。その思考の射程をどこに置くのかに依存するが、次の世代のことを考えた場合には、インターネットで生まれたときからつながっていた世代がすべての人間となった場合に今の世界のままであるはずはないと考えるべきだと思う。これは決して単純な技術の問題ではないだろう。

    『世界史の構造』は、重要な著作であると思う。また、それまでの著作のスタイルとはかなり異なるスタイルで書かれた意欲的な本だ。実際、日本を超えて英語、中国語にも翻訳されているという。であるがゆえに、それまでの著作以上に直截的な批判を受けることになるだろう。
    それは対談形式においては明らかにはできない。本書『「世界史の構造」を読む』を読んでそう感じた。このタイトルは対談集ではなく意欲的な批評家にこそ残されているべきではなかったか。もっと掘り下げられてよいテーマであるはずだ。



    『世界史の構造』のレビュー
    http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000236938

  • 一昨年出た「世界史の構造」の補完的書籍。ものすごく理解が深まりました。柄谷行人の底力を見た思いです。理想主義的に思われるむきもあろうが、この整理の鮮やかさは天才的。

  • 実は、『世界史の構造』自体をまだ読んでいない。本来なら『世界史の構造』を読んでから書くべきなのだが、この本を読み終えてから『世界史の構造』を読んでみようという気が起きない。

    それはなぜかと言えば、この本の中に、その結論がすでに繰り返し語られているということに尽きる。いうまでもなく、結論を知るために読むのが読書ではない。そこに至る過程にこそ読書の持つ愉楽はある。ではあるのだが…。かなり精力的に柄谷を読んできたつもりだが、NAMの運動を始めたころからついていけなくなった。現実に行動するということは、思索、思弁という、それ自体が重い意味を持つ行為を超越することではないか。

    この本の中にも、柄谷を「預言者」扱いする物言いがあったが、かつて「未来を語ることは反動である」というマルクスの言葉を引いて自らの思考を位置付けていた柄谷と今の柄谷は明らかに断絶している。

    もちろん、状況が変われば人間は変化するし、変化するのが自然である。ただ、未来を語り、行動を呼びかける柄谷にかつてのように惹かれない自分がいるということなのだ。かつて柄谷はアナーキストに肩入れしていた。ところが、今の柄谷はマルクスの中にあるアナーキスト性がマルクスの弱さだという。

    柄谷は「世界同時革命」を提唱している。といっても、別に武力革命を呼びかけているわけではない。具体的な行動としてあげているのは、国連の場において、日本は憲法九条を文字通り実施し、軍備を放棄するという。これは「贈与」であり、この贈与を受けて他国は日本に攻撃を加えることは出ないだろうという。

    柄谷は、今のままではいつか戦争が起きることを予言し、それを回避するためにも「世界同時革命」が必要であることを、対談の中で何度も繰り返している。言わんとすることはよく分かるし、そうなればいいな、とは思うのだが、さすがに、そううまくはいかないだろう。そんなことはすでに語り尽くされている。

    かつての柄谷には、他の批評家にはない、こちらの気づかなかった視点から世界を見せてくれるという点があった。それが、今回は残念ながら感じられない。

    『世界史の構造』を読む機会があれば、この印象は変わるだろうか。

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著者プロフィール

1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学大学院英文学修士課程修了。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授を歴任。1991年から2002年まで季刊誌『批評空間』を編集。著書に『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社 2021)、『世界史の構造』(岩波現代文庫 2015)、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫 2010)他多数。

「2022年 『談 no.123』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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