総じて、高良氏が、偽悪的なまでに、政府よりと言われようとも基地容認派と言われようとも、イエスでもノーでもなく、実務的に、「現実的に」、本土と沖縄に対話の通路を開き、一歩でも前進させたいという姿勢。仲里氏は、自分でも虫の視点というように、高所から見たのでは救いきれない声をひとつひとつ丁寧に聞き、すくい上げて、政府やアメリカには徹底的に批判の目を向けるという姿勢に感じた。同じテーマを交互に語っていくスタイルから、立場や見方の違う二人が巻末で論を戦わせるパートは手加減なしでひりひりする感ありの迫力。とくに「沖縄イニシアティブ」をめぐっては。以下、気になったトピック。/フランス植民地マルチニック島出身のエメ・セゼールが「帰郷ノート」で「苦しみのコンパスで測られたネグリチュード(黒人性)」といったことに重ね合わせられた、アメリカ統治時代の沖縄人の本土体験。いわゆる「沖縄的なもの」に南大東島は含まれていないという思い。多良間島は宮古全体に対して独自、宮古は沖縄全体に対して独自という意識を持つ…独自だという意識群を内部に抱え込む重層性が沖縄という独自性の内面に横たわる。ウチナーンチュという言葉が他のメンバーを排除し、自分のみが沖縄の形成者であると意識したときこのことばは不毛になる、という思い。「沖縄という価値」をあらかじめ所有し、そのうえで言葉を操作するという論理に距離を置き、沖縄や「沖縄問題」をさまざまな立場において自由に議論できるような状況を作りたかったゆえの沖縄イニシアティブであったという思い。