- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784903908571
感想・レビュー・書評
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いつもながら、著者の本を読むと、自分で考えることの大切さを教えてくれる。この本も例外ではない。
あとがきにある「まったく違う文脈でながめる」ことを実践してくれるからだろう。
平日は朝から晩まで企業に勤め、大新聞を毎日読んでいる私の様な人は、まさに読むべき一冊。 -
内田樹さんの本には、毎回他の人が思い付かないようなことが、誰にでもわかるような言葉で書かれている。
やさしく伝わる言葉遣い、鮮やかな実例や例え話。
他の誰も言う人がいないので自分が、という態度。
とても尊敬する、知的な方です。
戦争について、憲法の解釈改憲について、平時と非常時について、いつもの慧眼。
「この国の政府は、非常時にはこういう振る舞いをします。必ず。」と言い切った部分は、コロナ対応をまともにしない政府を見事言い当てています(何も嬉しくありませんが)。
大変示唆に富んだ一冊です。 -
先の大戦で、日本は負けっぷりが半端ではなかったという下りがとても印象的です。
また、戦後殆どの日本人は、大日本帝国憲法における「臣民」という立場を引き受けたまま戦争について語ること、即ち自分の問題や責任として語ることをしなかった。誰も引き受けなかった。被害者としての立ち位置でしか、戦争を語っていないのです。昨今自己責任という言葉が流行っていますが、それとは全く重みの異なる自己責任を戦後の日本人は引き受けて来なかったのではないかと考えさせられました。
内田樹氏の著書は数多出ており、内容も重複する部分が多いのも事実です。
しかし、この著書は戦争論とあるように、我々が今まで聞いてきた戦争観と異なる切り口を提供してくれています。また、グイグイと引き込まれていくエネルギーをヒシヒシと感じました。 -
メディアが語ろうとしない、いまの日本の現状を赤裸々に語っている。第四章「働くこと、学ぶこと」、第五章「インテリジェンスとは」は、示唆に富む内容。
多くの人に読んでもらいたい一冊。 -
2015/08/16読了
和光図書館 -
街場の戦争論が書かれたのは、昨年の総選挙前、実際にそれに合わせてミシマ社のHPはじめこの著書のまえがきが公開され、徐々に外堀りを埋めながら、少しずつ政治的に戦争へ加担していく様子を危惧しているのが分かる。
経済政策の圧倒的な強さは、すごい。雇用が回復し、企業の業績が伸び、株価が上がったことで得た信頼は、多少の反知性を全て見逃してくれる。
そうした経済的なものから一歩離れたところにいる知識人たちは、経済政策だけが有効に作用しているあいだに、次々と自由が奪われていくさまに警鐘をならす。
2015年の夏、そうした知識人の警鐘がついに表面化しつつある。国民の多くが疑問を抱えたまま、既定路線として決められた政治的な行程だけが進んでいく。
集団的自衛権、武器輸出、防衛費の増大、非正規労働者の増加、原発再稼働、外国人労働者の受け入れ、貧困格差の拡大。
全ての符号がいくストーリーは内田氏の指摘する通りだと思われる。軍需産業による経済発展はどれほどの効果をもたらすのか、一方で人を殺すための武器を作る人は何を思うのか。事故を起こしてもまだ共依存の関係にある原発で、過酷な労働を行う下請けの労働者は、声を上げることもできず、また仕事を続けるのか。その道しか本当にないのだろうか。
搾取される側の意識、権利といったものの議論のないままに、ただただ一方的にいろいろなものが決められていくことの気持ち悪さを、本著は正しく丁寧に説明していく。
少なくとも、学者や知識人だけは、サイレントマジョリティになることなく、声を上げてほしい。 -
最近の内田先生の本の中で特に良かった。語り下ろしが良かったのだろうか。
"僕たちは未だに韓国から先の戦争中の従軍慰安婦制度について厳しい批判を受け、謝罪要求されています。日韓条約で法的には片がついているとか、韓国には十分な経済的な補償を済ませているから、いつまでも同じ問題を蒸し返すなというようなことを苛立たしげに言う人がいますけれど、戦争の被害について敗戦国が背負い込むのは事実上「無限責任」です。定められた賠償をなしたから、責任はこれで果たしたということを敗戦国の側からは言えない。戦勝国なり、旧植民
地なりから、「もうこれ以上の責任追及はしない」という言葉が出てくるまで、責任は担い続けなければならない。” 21ページ
"靖国神社に終戦記念日に参拝する政治家たちのうちには「中韓に対する謝罪は済んだ。いつまでも戦争責任について言われるのは不快である」と言い募る人が少なくありません。僕はこの考えがどうしても理解できないのです。彼らがもし自分たちのことを大日本帝国臣民の正当な後継者だと思っているのなら、祭神である死者たちに深い結びつきを感じているつもりなら、死者たちに負わされた「責任」の残務をこそ進んでわがこととして引き受けるはずです。それによって死者たちとのつながりを国際社会に認知させようとするはずです。” 79ページ
”民主制も立憲主義も意思決定を遅らせるためのシステムです。政策決定を個人が下す場合と合議で決めるのでは所要時間が違います。それに憲法はもともと行政府の独創を阻害するための装置です。民主制も立憲主義も「物事を決めるのに時間をかけるための政治システム」です。だから、効率を目指す人々にとっては、どうしてこんな「無駄なもの」が存在するのか理解できない。
メディアも理解できなかった。そして「決められる政治」とか「ねじれの解消」とか「民間ではありえない」とか「待ったなしだ」とかいう言葉を景気よく流した。そうこうしているうちに、日本人たちは「民主制や立憲主義は、『よくないもの』なのだ」という刷り込みを果たされたわけです。
現在の安倍政権の反民主制・反立憲主義的な政策はそのトレンドの上に展開しています。国民たち自身が自分たちの政治的自由を制約し、自分たちを戦争に巻き込むリスクが高まる政策を掲げる内閣に依然として高い支持を与え続けているのは、「民主制や立憲主義を守っていると経済成長できないなら、そんなもの要らない」と思っているからです。 143ページ -
太平洋戦争で日本が失ったものは何かを、じっくりと炙り出す骨太な一冊。見えてくるのは戦後という時代の歪み。白井聡の『永続敗戦論』と合わせて読みたい。
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先の大戦で日本が喪ったものは何か。著者はそれを主権だという。勿論国家として独立を認められているのだから、その意味で主権を持たないということは形式的にはないはずだが、実質的な意味ではどうなのかという議論だ。実質的に主権を持つために力が必要だ、という理屈はわかりやすいけれど、個人的には正しくないと思う。何故なら、どれだけの力が必要で、その力を得るためにどれだけのコストがかかるのかという議論がなされないまま一人歩きしているように見えるからだ。