- Amazon.co.jp ・本 (492ページ)
- / ISBN・EAN: 9784907188429
作品紹介・あらすじ
東浩紀が編集長を務める批評誌「ゲンロン」最新刊です。今号の特集では、楠木建氏、鹿島茂氏、桜井英治氏、飯田泰之氏、井上智洋氏、小川さやか氏の論考と座談会で、多様な切り口から「無料がひとを幸せにするか」を考えます。ほか、3万部を突破した東の『観光客の哲学』の増補論考「訂正可能性の哲学」(8万字)をはじめ、演出家の鈴木忠志氏へのインタビュー、民主主義をめぐる宇野重規氏と東の対談、柳美里氏、高山羽根子氏、石戸諭氏らのエッセイなど豪華記事を収録。過去最大のボリュームとなりました。
感想・レビュー・書評
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『SFの書き方』の代わり
・現実の記憶や感覚、いま見えている世界といったものに対する疑いを持つ。
・塀の上にいる猫に「なぜそこにいるのか」という問いを立てるのがミステリの楽しませ方で、「あの猫は何者か」という問いを立てるのがSFの楽しませ方。
・変な世界を短編で設定するなら、よく知ってる現実からパラメーターをひとつだけ変えるぐらいがちょうどいい。
→ 『夜来たる』アシモフ
・読者は読みながらどんどん忘れていくので設定の説明から始めてはいけない。
・ストーリーに関係ない限り、あらすじには登場人物の外見は書かない。3行以内で、ひとまとまりの一貫した何かということを意識する。
・あらすじは面白さより分かりやすさを重視する。
・アクションシーンでやってはいけないことは、決めずに書くこと。空間的に何がどこにあるか、物理的にどうなっているか、その人間の精神状態や体力とかをあらかじめ決めておく。
剣戟アクションの場合はいかにして室外に出るか。
・Scriver, InDesign (アプリ)
・あらすじはオチまで書く。 -
東浩紀の訂正可能性の哲学。公共性を開放性ではなく、訂正可能性としてとらえるという新しい哲学。そして東的な家族という概念。とても熱くなった。
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哲学者は言葉を繋げていく。鋭い言葉、切り口で過激な指南をして煽るのではなく、ゆっくりと丁寧に広い読者に向け語られた、東浩紀『訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について』は、ウィトゲンシュタイン=クリプキをローティにつなげ、アーレントへと横断し、家族概念の再定義を図る。
家族は訂正可能性に支えられる持続的な共同体。言語ゲームも固有名も家族も、なんらかの類似性を基準として、他者に承認される訂正可能な共同体の規則によって成立する。
観光客のように中途半端であることが政治的であるためには不可欠な態度。ぼくたちはすべての問題に中途半端にしか関わることができない。
人間関係の誤配=つなぎかえが観光客で、世界のハブになる。
→婚姻が家族のつなぎかえ
リベラルはグローバルに社会へ開かれているつもりでも、本当はポストモダンでブルジョワでリベラルな感覚のリベラル村に閉じこもっている。プラトンやヘーゲルの開かれた社会の構想がポパーには閉じた部族社会に見えなかったのと同じ現象である。
超越的な理念よりも実用的な機能に注目するプラグマティズム、なかでもローティはネオプラグマティズムと呼ばれ、革命や神などの普遍性への思いを私的な領域に閉じ込めておく、リベラル・アイロニズムの立場である。それこそが自由で民主的な世界を維持するために必要不可欠であると考えた。思想の共有を前提とした連帯は、多様な人格を包括する民主主義には反しているため、苦痛への共感こそが民主主義的な連帯の構築には有効。たまたまその国その時に生まれた、自分とその周囲から始めるしかない。共感により「わたしたち」の範囲が再帰的に拡大する。それが開かれた公共性へいたる。
アーレントは公共性を、制作者が作った持続的な共通の世界における、行いの現れ=開放性とした。特に、行いのうち、複数の人間の政治的言語コミュニケーションである「活動」が、私的空間の労働や世界の制作よりも、もっとも重要な人間の条件であると述べた。ところが重要なのは、活動は世界の制作者がいなければその物語は生き残ることができないとも記している。活動者は制作者によって歴史的に承認され、もしくは書き換えられ刻印される。活動者自身は、現れの空間で言語ゲームを展開するが、自分が何者でどんな意味があるかは予測できず、制作者という他者の記録訂正によりはじめて持続的な公共圏となる。
→三島由紀夫の全共闘討論での持続性の強調ともつながる
『革命について』では、フランス革命は熱狂しか残さなかったが、アメリカ独立革命は合衆国憲法を残したため高く評価している。公共性を訂正可能性の共同体として捉えることは、アーレント、つまりリベラルの公共性論の出発点において述べられている。
アーレントは、制作をポイエーシス=詩作という言葉で表現している。他方、モデルとされた古代ギリシアにおけるプラトンは、『国家』の中で、ポイエーシスを扱う詩人は、守護者=政治家の心を乱すので公共性の障害であるとしている。アーレントは、現実の政治が論争やデモなどに収まらないことを示唆している。哲学、芸術、人間の生は政治よりも大きい。子が生まれ、増え、新しい思考の可能性と共に参入することこそ公共性の条件である。あらゆる法、偏見、イデオロギー、アイデンティティ、友敵の分割をたんに否定するのではなく、持続させつつ訂正可能性に開くような制度設計が必要である。