語りかける身体: 看護ケアの現象学

著者 :
  • ゆみる出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784946509254

作品紹介・あらすじ

いわゆる植物状態と呼ばれる患者は外側から観察されるかぎり、なんのふるまいも声を発することも出来ず、他者との交流が不可能な存在とされている。しかし、実際にケアに携わる看護者たちは、彼らとの交流を確かなものとして実感し、はっきりとは見てとれないが経験の内に埋もれている"何か"に、著者の視線は向けられる。メルロ=ポンティの「身体論」を手がかりに"身体"固有の始源的次元へと立ち帰り、そのはっかりとは見てとれない関係を経験の内側から、看護者の視線から記述した画期的労作。

感想・レビュー・書評

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  • 看護学と現象学の交差・・・難しかった。

    でも、いわゆる「植物状態患者」と看護師とのかかわりというテーマはすごくおもしろくて、メルロ=ポンティの理論を踏まえた3章は難しいけど、看護師のスクリプトを基軸にした2章は現象学とかに関心が薄くても読める内容だと思う。

    個人的にいいタイミングで読むことができたのかあという感じ。ちょうど、いま考えなければいけないことと近い所にこの本の関心があったので。

  • T.N

  • 以下引用


    経験してはいるけれども、それとして気づかないでいたこと。こうした経験は、既に述べてきたように、その事実が私たちの目にはっきり映し出されないために、意識や自覚ができずにいる前意識的な層のいとなみであった。この層は実存の奥深い次元における身体と世界との対話によって分泌され、つねに動的に生み出されつづける意味でもある。この層は身体固有の次元、あるいは始原的な層と呼ばれる


    ひとまる見えていること、語られたことを手掛かりに、こうした次元へと分け入り、そこでのいとなみを記述する

    この隠れた次元は、それを垣間見る手掛かりが得られたからといって、すぐさま開示できるわけではない。植物状態の患者の看護経験のうちに前意識的な層が宿っているからといって、看護婦が語った経験を忠実に再現しただけでは、この次元に触れることはできないのである。

    どうすれば前意識的な層における経験を、そのものとして押し出すことができるのであろう。今回のアプローチでは、僅かなながらでも、この次元に迫れるように、経験の当事者である看護婦との自由な対話を試みた。

    メルロポンティ:対話の経験においては、他者と私とのあいだに共通の地盤が構成され、私の考えと他者との考えとがたふぁひとつの同じ織物を織り上げるのである

    対話によって生み出された語りの裏に、意識的な反省によっては気づけない前意識的な層における経験が、僅かながら潜んでいる

    そのような前意識的な層におけるいとなみが、対話によっていかに語りだされたかについえ、検討することから始めたい。まず、Aさんが驚きながら語った、今思えばという表現に注目してみる。今思ったこととして語られた経験は、確かに過去の私が経験した出来事だった、それは過去そのものではなく、今という瞬間のうちに語りながら解釈され、捉えなおされた過去。それゆえ、過去のその時感じたこと、あるいは知覚したことと矛盾していた李、その時には全くきづかなったかこととして語られたりもする

    語りによって表現された経験が、過去のその時に感じたこと、あるいは知覚したことそのままであるとしよう。もしそうならば、わたしたちはつねに経験したことを自分の中のどこかに蓄積していることになる。私たちの経験を形を変えないで蓄積され凝固される。そしていつでも必要な時に同じ形で取り出されることになる。私の探求していた経験がそういったものなら、あえて対話をする必要はなかった。

    ★記録は、その時に自覚できたことをある形式にそって、あるいは専門用語を用いて、簡潔に書き留めたものである。そのため、そこに経験の豊かさや厚みが織り込まれていることはほとんどない。いうまでもないが、こうした記録のうちに前意識的な層がその姿をみせてくれることは期待できない

    経験しているまさにその時に気づかないでいたことを押し出そうとしているのであるから、行ったことやその経験を自ら反省的に振り返るのも効果的ではない。既に述べた通り、身体固有の次元におけるいとなみは、常に動的に生み出され続けているという意味において、未完結で開かれたもの。その経験は、そのまま蓄積され固定されるものではない。経験を過去の一つの出来事として措定することは、経験を凝固し、閉ざされたものにしてしまう。こうした経験からは、新たな意味は紡ぎ出されてはこない。。

    前意識的な層における経験を語りの内に押し出そうとする場合、あらかじめ質問する内容が決められているようなインタビューでは意味をなさない。同様に語り手もあらかじめ語る内容を準備しているのではなく、その都度語りながら、その語りに促されるように経験を生み出していくのである

    語られた内容を細かく確かめていく作業は、語り手に自らの経験を分析させてしまうことにもなりかねない。こうした作業により語られた経験は、自然に生み出されて解釈されたものではなくなり、意図的に思い出され、分断されたものになる


    Aさんの語りを聞きながら、私の内にごく自然に沸き上がってくる言葉は、その都度、表出するようにしてきた。私がここで行ったことは、単に聴くというのではなく、対話をすることであったため。それはひとりで語ることとは意味が違う。発せられた言葉は、その相手との関係の内に呼び覚まされ武井健。このようなインタビューでは、自分の語ったことなのか、相手の語ったことだったか、区別さえつかないほどに引き込まれ、夢中になったそのときに、対話といえる経験が生成される。

    私のような聞き手が関心を示さなければ語られなかった可能性があった。というのも、彼女たちの語ってくれた経験の多くは、科学的な裏付けがなく、個人の思い込みとされてしまうような、さらには記録に残すことをためらうような経験であった。それだからこそ、これを開示するための他者の存在が必要であった。このように、聞くものがいなければ語られなかった、あるいは語るのを躊躇するような経験は、対話によって生み出されたものともいえる


    インタビューは行うのではなく、回答者と共に、その対話に参加しているのである

    ★われわれの多くは、自分自身の考えをわれわれ自身と同じくらいに重要な反応をしてくれる人々によって理解する。


    インタビューに参加した両者が、生きられた経験の新たな意味に気づくことを介して出会ったとき、聞く、あるいはストーリーを物語ることによって、カタルシスが経験される


    今回の探求において、方法論についての検討が記述者となる私の開かれた自己反省を推し進めていった。

    前意識的な層における知覚経験の記述は、読み手に対してどのような意味、あるいは、経験となるものだろうか。

    経験しているけれど、それとして気づかないでいたことの自覚、身体固有の次元におけるいとなみ

    その都度の経験が紡ぎ出されるありさまを描写する現象学的記述にリアリティを感じるのは、こうした記述にふれることで、読み手がこれまで気づかなかった自覚を促されるから。と同時に、それを自覚することによって、普段は気づかないでいる私たちのいとなみの起源から、自らの態度を問い直す機会になっているため

    探求するものの態度が、現象を開示するために重要な役割を担っていた

    私自身が探求しようとする現象にいかに関われるか、語り手とどのような関係を築くことができるかが、語りや記述を大きく左右していた。

    あらかじめ実在する何かを発見するというよりも、研究を行うものが、その現象と関わることで、そこに生み出されてくる新たな意味を見出そうとしていたため。

    見て取ることのできない臨床的な営みを言語化すること、前意識的な層で起こっていることの記述を試みようとしてきた。記述された経験は、その明解な内容からだけではなく、読んだことを理解する解釈のプロセスを通して学ばれるのであり、さらにこのプロセスを介して、私たちはこうした経験を自己の経験として生きる(living through)のである


    経験の振り返りによって蓄えてきたパラダイムケースによる対処パターンを、今直面している状況に、無意識のうちに照らし合わせていくという形での臨床判断、そしてこのように論理的な思考の関与なくして進行する実践が、果たして専門職の判断なり実践と言えるでしょうか。

    実践的状況の只中にありつつ、そこで起こっていることに意識的に注意を剥け、即座に思考する―ショーンは、このような思考をthinking on your feet という。これとベナーのいう専門知識・技術、つまり直感的に、そして論理的および意識的に考えることなしに行為すること、とを対比しながら、一見、即座の判断という意味で同様の実践知とみなされがちな両者には、明らかな違いが認められると論じている。思考しつつ、状況に関与することによってその状況をも変化させ、また新たな状況に応じて専門的実践知を更新する、これに対し、ベナーのいう専門知は、論理的思考なしに、無意識のうちに行われ、それゆえ、関与することによる状況の変化という視点を失っている

    人と人とのかかわりを基盤に成立している看護のいとなみそのものが、習慣化されるというベナーの考え方にも疑問をかんじる。たとえ機械を用いる倍芋、状況が変化している中で、人間のいのちに直接かかわる臨床の場においては、いつまでも習慣化されないその都度の新たな出来事の出会いと、そこに生成されてくる経験がある、

    たとえ採血という行為が習慣化されているからといっても、看護師はその都度に生成される新たな事態の渦中に投げ入れられているのである、これと向き合わざるを得ない

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著者プロフィール

東京都立大学健康福祉学部教授

「2021年 『現代看護理論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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