紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) [Kindle]

著者 :
制作 : 山本 淳子 
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感想・レビュー・書評

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  • 彰子の第一子(敦成親王 あつひら)誕生時は、『御堂関白記』では物々しくて何日にもわたって詳しく描かれているのと対照的に、第二子(敦良親王 あつなが)誕生時はあっさりしていて、なんでだろうと思っていたけれど、あのあっさり具合はすでにひとり男の子を生んだことで、道長から彰子に対するプレッシャーが減っていたということかもしれない。

    でも、御堂関白記はビギナーズクラシックでしか読んでいないので、ただ単にビギナーズクラシックの紙面の都合で敦良親王に関するエピソードをカットしていただけという可能性もある。

    「(藤原道長が)自ら指示して庭の遣水の掃除をさせる様は、庭が整備されていることが当主の栄華と力を表したことからでしょう。この逆で家の勢いが衰えた場合は、物語でも日記でも、庭に雑草が生い茂っていると描かれます。」p.25

    「女郎花はその名前から、女性、それも戯れの恋の相手を意味することが多い花です。それは、今にたとえて言うならば、赤いバラの花が情熱的な恋を意味するくらいの常識でした。」p.26

    伊周と道長は8つしか年が離れていなかったんだ。
    伊周の父親だった道隆は道長より13歳年上だったので、当時の結婚が早かったことを思うと、叔父と甥の年齢差がそれほどないのも不思議ではなかったのかも。

    道長の三の君である頼道が、「女性はやはり気立てが一番だが、それが難しい」と話して紫式部やまわりの人々を感心させたという話が出てくるが、現代の感覚だと17歳の子どもが何を言っているとしか思えない。文を送った女性から、けんもほろろに扱われでもしたのか?
    でも、もしかしたらこの出来事が雨世の品定めに影響を与えたのかも?

    「上達部(公卿)」は朝廷に仕えてまつりごとに関わる議事に参加する、三位以上の位を与えられた貴族たちのこと。人数は、一条天皇の時代には20~30人だった。

    ちなみに貴族は、役人の中でも朝廷から五位以上の位を授けられた高級官僚のことを指し、数は約100名~200名程度だったと考えられている。

    中宮彰子と一緒に源氏物語の本作りをしているシーンがある。
    中宮手づから作業していたのか。
    紫式部の直筆原稿は、いくつかにわけて清書をいろんな人に依頼していたとある。紫式部が全部自分でやっているんだと思っていた。
    彰子に仕える前はたぶん自分でやっていたけれど、宮中に出仕するようになってからは、紫式部が書いたものを清書させて、戻ってきたものを製本して…という制作体制になったということなのかな?
    →一条天皇へのおみやげに、彰子が『源氏物語』豪華本を作ることを思い立ち、紫式部が作業に当たっていたらしい。

    宮中にまで強盗が出るだなんて、平安時代は治安が悪すぎる。

    清少納言は定子の死後も枕草子を書きつづけていた。
    少なくとも1009年までは書きつづけていたと思われる。
    定子が亡くなったのは1000年。
    紫式部日記が書かれたのは、1008年から1010年までの間。
    清少納言が書き続ける枕草子の影響もあって、内裏での彰子の評価は低かった。紫式部にしてみたら、清少納言は忌々しい目の上のたんこぶのようなものだったのかもしれない。自分の亡くなった夫を枕草子の中で笑いものにもされたし。

    道長の日記で、一条天皇が漢文を好んでいたので、道長は漢文の愛好家であるふりをしようとしていた、といったようなことを書かれていたのを、紫式部が彰子に漢文の講師をしていたシーンで思い出した。
    夫である一条天皇と話をしたくて、彰子は頑張っていたんだな…。

    「(紫式部の同僚だった)女房・宰相の君は道長の兄・道綱の娘。そう、祖母は初期日記文学の傑作『蜻蛉日記』の作者、道綱母です。
    彰子と宰相の君はいとこ同士なのに、一方はお后で一方はその女房、どうしてなのでしょう。これは道長と道綱とが腹違いで、道長の母が正妻であったのに対し道綱母はそうでなかったことから、息子の出世の速さに差がついたのではないかと考えられています。でも、宰相の君はそうした境遇の中で上を目指します。今度生まれてくる彰子の子どもの、乳母になることが決まっているのです。」p.36

    「彰子やこの倫子をはじめ平安時代の女性たちは、一般に名前の読み方がはっきり伝えられていない場合がほとんどです。また時々伝えられている場合も、例えば高子を「たかいこ」と読んだり「明子」を「あきらけいこ」と読んだりと、現代の訓からは想像もつかないような読み方であることがあります。そのため多くの書物では、誤読を避けるために、女性名を「しょうし」などと音読みするのが習慣となっています。」p.40

    「遣水の塵が除かれ水が滞りなく流れるということは、邸がちゃんと手入れされていること、その家が順調に反映していることの表れです。とはいえさすがの道長も、彰子の出産直前はそれに心を占領され、邸のことにまで意識が行き届かなかったのでしょう。しかし今や、道長は安心して自邸の管理にあたれるような心の状態に戻った、いえ、間違い無く前以上に気持ちの余裕を得たのです。」p.53

    「亡くなった定子が一条天皇の長男、敦康親王を産んだ時には、定子の実家が没落していたうえ、彼女自身も一度出家した身であったことから、貴族社会は総じて冷淡であったことが記録に残っています。(藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』長保元年11月7日)」p.64

    「心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず 『紫式部日記』
    (心とは、普通ならば自分の背負った現実に従ってくれるはずのもの。しかし私の場合はそれさえも、いったいどのような現実になら収まるというのだろう。私の心は身に不相応だ。私にはそんな自分がよくわかっている。だが、わかり切れないのだ。)」p.79

    「人間は無情な存在です。しかし文学作品は、そのはかない存在に永遠の命を与えることができます。『枕草子』が世にある限り、定子は生き続けています。それは千年後の私たちがはっきり感じるところです。
    が、彰子女房であり『紫式部日記』作者としての紫式部にとっては、『枕草子』は目の前に立ちふさがる大きな壁でした。この作品が美しく再現し続ける定子文化を越えなくては、中宮彰子はいつまでも二番手のままなのですから。そこで紫式部がとった方法は、清少納言を、たんに清少納言個人としてだけでなく、そのありかたももろともに全否定することでした。」p.194

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著者プロフィール

平安時代の作家、歌人。一条天皇の中宮、彰子に仕えながら、1007~1008年頃に『源氏物語』を完成されたとされる。他の作品として『紫式部日記』『紫式部集』などが残っている。

「2018年 『源氏物語 姫君、若紫の語るお話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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