タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書) [Kindle]

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  • 今では当たり前のように使われている「タテ社会」という言葉。これを初めて定義した名著だった。文章は論理的かつ明解で、1967年の本ながら、あまりにも見覚えのある内容に唸ってしまった。

    現代の日本社会はラフカディオ・ハーン『日本の面影』の時代から比べたら、西欧崇拝と近代化および戦後の植民地化によって魂の半分くらいアメリカ人になってると思っていたが、変わっているのは表面だけで、根本は何ひとつ変わっておらず、逆にすごい。

    単一民族、同質的な社会ゆえに、同じ場を共有する、目の前にいて常時接触できる人間同士で固まる。結束を強めるためにはウチとソトを厳格に区別する必要がある。しないとみんな似たり寄ったりで区別がつかないので。それで「よそ者」は非人間化され、ことさら冷酷に扱われるし、日常見知らぬ他人とコミュニケーションする必要がないので、社交術というものも発達しない。

    シャイな日本人とよく言われるその内実は、社会を維持機能させる方法であるところの「ウチら仲良し、よそ者は嫌い」を海外に出てまでやってしまうだけだったわけか。「どこに行っても田舎っぺ精神」という表現には納得しかないけれど、ある意味では不器用かつ健気ですらある。ような気がする。

    論理より感情を優先することで機能する社会だったからこそ、こんなにも感情にあふれていたのかーと、島国根性とかムラ社会などと、自己批判しがちな日本独特の社会システムについて、より客観的な、あるいはプラスといっても良いくらいの視点が得られる本だった。

  • この本を引用している本を読んだのでついでに読みました。日本人はその生涯をルールが不明瞭で年功序列の場(地域や所属機関)で過ごすと看破した1967年の名著です。これが半世紀以上も過ぎてもほぼ変わっていないのが恐ろしい。

  • 1967年刊行の「日本論の新しい古典」。歯切れよく品の良い文章で、内容は腑に落ちることばかり。117万部も売れてるということで、初読でもこの理論が国内外に広く受容されてることがわかった。
    「天才的な能力よりも、人間に対する理解力・包容力をもつということが、何よりも日本社会におけるリーダーの資格である(p148)」
    変化の激しい21世紀になっても、日本社会におけるリーダーのあり方は変わってないようだ。
    また、「論理よりも感情が優先(p173)」する社会が、パンデミックの収束を困難にしてる要因の一つではないかとも思った。

  • インドや欧米と比較して、タテとヨコの組織について、所属について書いてある。
    自分が当たり前と思っていたことも、世界ではそうでないことや
    経験的にりかいしていたことも、具体的に説明されておもしろかった

  • とても勉強になった。フリーの仕事や、転職が盛んになったり、インターネット、SNSが発展したりで細かい今の事情で変化はしているのだろうが、根本的に「タテ」を意識した思考と行動に、自分が意識していなくても、周囲の環境から縛り付けられることは今後も続き、否が応でも引きずられるのだろう。この「タテ」の仕組みをきちんと理解しているだけでもだいぶ違うはずだ、と信じたい。

  • ・日本人は“場"を重んじる(ex.就職ではなく就社)
    ・年功ではなく、入ってきた順に序列ができる

    ・反対に、インドなどは"資格"を重んじる(ex.カースト制度)

  • 『形とか内容は同じであっても、その仕方、運び方が違うということは、社会の質を知るうえでたいへん重要なのである』(p.15)

    外装は西洋化したように見えるが、内的には日本に特有の「ウチとソト」の社会構造に関する通念が色濃く残存していることを指摘・考察した書。1967年出版。

    西洋的社会認識において集団とは個人の属性の集合であると捉えられ契約主義的に運用されることが多いのに対し、日本的社会認識においては集団とは個人の集合体としてその内部の関係性に焦点があてられた運用が為されることが多い。

    そのような価値観に基づけば人は「集団に所有される」という側面が強く、集団とはすなわちその人全体がどっぷりとつかるものであると言える。個人は集団に内包されるのである。
    (「籍を置く」といった表現にも日本において個人は1つの名をある一定の場に固定するという観念が含まれているのかもしれない...)

    こういった社会構造においては同様の属性を持つ者どうしの風通しの良いコミュニケーションは行われず、内的に閉ざされた「ウチ」の社会空間が完成する。
    労組などを組んだとしても仲間意識が企業内で完結しており、外部企業の同様の境遇の人々のことを「ソト」と認識してしまうため、プロレタリアート運動的な熱意を持った大きな運動に発展することがない。

    日本ではなぜ実力者が組織の上層部に行くことができないのかについての考察にも惹かれるものがあった。

    日本においては集団内の関係性をうまく運用していくことに主眼があてられており、集団内の関係性をよく知っているのは「長く居る人」なのだからその人の評価が高くなるという構造が存在するワケだ。

    このような背景にあっては転職するということは「新入り」になることであり、日本において高い評価が為される性質を持つ社会的資本を自ら捨て去ることでもある。
    この行動はこの状況下おける個人の経済的判断としては不合理なものとなるだろう。そういった力がはたらき、日本の人材には流動性が~ということにもなる。

    決して日本を特別扱いするわけでなく、この社会文化的構造が形成されてしまっている土壌のもとにはそこから抜け出すのが難しくなっているというある程度客観的な社会構造的力学を提示していたため、数値で示された客観的事実の提示はないにせよ示唆に富む考察を得られた書であった。

    集団内の全員が一致しているときには勢いが出るが、それぞれの方向性が統一されてないときには和を取り持つためだけに多大な労力が割かれ生産性が一挙に低下してしまう日本的社会集団の性質はようやく個人主義が背景として受け入れるようになってきた我々の世代とさらに大きな軋轢を生み出している。

    パッケージと内容物の不和がこの国の「失われた30年」の背景にあると考えてみても、確かにもっともらしいと思える。

    この書が書かれてから実に55年が経っているが、明治維新期に取り入れられた形式としての西洋的構造と通念としての日本的社会構造のアウフヘーベンに日本は未だに成功していない。
    このパッケージと内容の不和の問題を大きく取り上げ、真剣に取り組むことなしには今後も日本の経済的停滞は続くことが予見されるだろう。

  • - どの社会においても、個人は 資格 と 場 による社会集団、あるいは社会層に属している。この両者がまったく一致して一つの社会集団を構成する場合はなきにしもあらずであるが、たいてい両者は交錯して各 二つの異なる集団を構成している。そこで興味あることは、筆者の考察によれば、社会によって資格と場のいずれかの機能を優先したり、両者が互いに匹敵する機能をもっている場合があることである。
    - すなわち、日本人の集団意識は非常に 場 におかれており、インドでは反対に資格(最も象徴的にあらわれているのはカースト──基本的に職業・身分による社会集団──である)におかれている。
    - 「会社」は、個人が一定の契約関係を結んでいる企業体であるという、自己にとって客体としての認識ではなく、 私 の、また われわれ の会社であって、主体化して認識されている。そして多くの場合、それは自己の社会的存在のすべてであり、全生命のよりどころというようなエモーショナルな要素が濃厚にはいってくる。
    - 日本の企業の社会集団としての特色は、それ自体が「家族的」であることと、従業員の私生活に及ぶ(家族が外延的にはいってくる)という二点にある。後者は前者の当然の結果として出てくる。
    - 日本人による「ウチ」の認識概念は、「ヨソ者」なしに「ウチの者」だけで何でもやっていける、というきわめて自己中心的な、自己完結的な見方にたっている。
    - 社交性とは、いろいろ異なる個々人に接した場合、如才なく振舞いうることであるが、一体感を目標としている集団内部にあっては、個人は同じ鋳型にはめられているようなもので、好むと好まざるとにかかわらず接触を余儀なくさせられ、個人は、集団の目的・意図に、よりかなっていれば社会的安定性がえられるのであり、仲間は知りつくしているのであり、社交などというものの機能的存在価値はあまりないのである。
    - 地域性 が強いということは、その集団ごとに特殊性が強いということと、一定の集団構成員の生活圏がせまく、その集団内に限定される傾向が強いということである(「地域性」という日本語より、英語の local がよくあてはまる。地理的な意味に限定せず、社会的な意味につかう。感覚としては「田舎っぺ」という表現がよく当たる。すなわち、自分たちの世界以外のことをあまり知らない、あるいは、他の世界の存在をあまり知らず、それになれていないということである)。
    - ローカルであるということは、直接接触的(tangible)であるということと必然的に結びついている。  前述のごとく、集団構成員の異質性からくる不安定さを克服するために、集団意識をつねに高揚しなければならない。そしてそれは多分に情的に訴えられるものであるから、人と人との直接接触を必要とし、また、その炎をたやさないためには、その接触を維持しなければならない。  事実、日本社会における、人間関係の機能の強弱は、実際の接触の長さ、激しさに比例しがちである。
    - 日本のいかなる社会集団にあっても、「新入り」がそのヒエラルキーの最下層に位置づけられているのは、この接触の期間が最も短いためである。年功序列制の温床もここにある。
    - 個人の集団成員との実際の接触の長さ自体が個人の社会的資本となっているのである。しかし、その資本は他の集団に転用できないものであるから、集団をAからBに変わるということは、個人にとって非常な損失となる。
    - こうした現象は、何もこのような外国にあるという特殊条件をとらなくても、日本社会においても、二つ以上の集団に同様なウエイトをもって属するということは非常に困難である。もちろん個人として二つ以上の集団に属しているのが普通であるが、重要なことは、必ずそのいずれか一つ優先的に所属しているものが明確にあり、あとは第二義的な所属で、また、自他ともにそれが明瞭になっているということである。
    - 複数の場への所属は不可能  なぜならば、 場 によって個人が所属するとなると、現実的に個人は一つの集団にしか所属できないことになる。その 場 を離れれば、同時に、その集団外に出てしまうわけであり、個人は同時に二つ以上の場に自己をおくことは不可能である。  これに対して、 資格 によれば、個人はいくつかの資格をもっているわけであるから、それぞれの資格によって、いろいろな集団に交錯して所属することが可能である。
    - 日本では、これは口答えとして慎しまなければならないし、序列を乱すものとして排斥される。日本では、表面的な行動ばかりでなく、思考・意見の発表までにも序列意識が強く支配しているのである。
    - 彼らの社会では、組織の構造指標となるものは「タテ」につながる序列ではなく、「ヨコ」につながる階層的な分類である。こうした構造をもつ社会では、同僚意識が強く、そこに連帯性が生まれ、反対に、そのなかでの序列意識はきわめて低調となるのである。この志向が最も発達したものがインドのカースト制である。
    - hの入団に際して、以上のXとYの場合の比較にあきらかなように、X集団はつねに外に向かってその下方において開放されているのに対して、Y集団はむしろ排他的である。  しかし、Yにおいては、いったん成員として参加できると、新参者でも、他の成員とまったく同列にたつことができる。また、内部における成員個人の位置は交替が可能である。集団成員の増減にかかわらず、一定した集団構成の形式をもち続けることができる。  一方、Xにおいては、個人の集団参加の場合の特定成員との関係設定(そしてその時期)というものが、そのまま組織として定着してしまう。したがって、個々の成員の組織における位置の交替ができないという弾力性のないものとなっている。そして、この固定的な組織がそのままヒエラルキーを生み、古顔は力をもち、新参者はつねに一番損な立場に立たされるという、同じ集団成員でありながら、必然的に不平等性が存在する。
    - 第一に指摘できることは、こうした内部構造をもつ集団組織においては、リーダーシップというものは非常な制約を受けるということである。 /// この関係は下(子分)をしばるばかりでなく、上(親分)をも拘束するものである。「温情主義」という言葉に表わされている情的な子分への思いやりは、つねに子分への理解を前提とするから、子分の説、希望を入れる度合いが大きい。
    - 日本の場合、極端にいえば、リーダーは集団の一部にすぎない。そのために、リーダーにとっては、集団を自己のプランに応じて動かす自由が非常に制約されている。いっぽう、集団がリーダー一人に責任を負わせ、時によっては、彼を冷たく切り捨てるといったような危険性もない。
    - 天才的な能力よりも、人間に対する理解力・包容力をもつということが、何よりも日本社会におけるリーダーの資格である。どんなに権力・能力・経済力をもった者でも、子分を情的に把握し、それによって彼らと密着し、「タテ」の関係につながらない限り、よきリーダーにはなりえないのである。
    - 日本人は、論理よりも感情を楽しみ、論理よりも感情をことのほか愛するのである。少なくとも、社会生活において、日本人はインテリを含めて、西欧やインドの人々がするような、日常生活において、論理のゲームを無限に楽しむという習慣をもっていない。  論理は、本や講義のなかにあり、研究室にあり、弁護士の仕事のなかにあるのであって、サロンや喫茶室や、食卓や酒席には存在しない。そうしたところでは、論理をだせば理屈っぽい話としてさけられ、理屈っぽい人は遠ざけられる。

  • 真の民主主義と違った平等主義。
    便利なところも不便なところもある。

  • 現代的視点でいえば、おそらく統計的な検証がなされるべきなのだろう。(本当にこの本に書かれた理論が日本・日本人・日本の組織に特有のものか、検証の余地がある)

    ただ、統計的な検証は、豊富な経験・知見から導かれた鋭い洞察・仮説に基づく。著者の説は、鋭い洞察・仮説として素晴らしいと言える。

    本書を読んだうえで、自分の人生に活かすならば
    ・横に動ける点は強み
    ・理論的に語れる点も強み
    ・ただし、転職者であるがゆえに、縦のつながりは弱い。よってこの機能を誰かに頼るべし。

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