戦後の時代を生きる旧家の女三代と彼女らを取り巻く人間模様を描く。山陰の湿気た灰色の空と鬱蒼とした山のなかでだんだんに紅い大屋敷から職工の家が連なる様は赤朽葉家を天とする閉じた世界を鮮明にイメージさせる。赤朽葉の製鉄所と煮えたぎる熱は赤朽葉の家と紅緑村の繁栄と衰退の象徴であり、神話の時代には職工たちがシンプルに輝かしい前途を信じ汗と煤にまみれてがむしゃらに働いていたものが、公害が悪化し子どもたちが閉塞感に満ちて職工を忌避するに至るのが寂しい。赤朽葉の者といえば村民は顔を拝む機会もないほどで、外車に乗り働きもせず洋書を喫茶店で読むような隔絶した雅な世界で生きていたのが、コールセンターで客にキレてラブホテルで彼氏と怠惰で穏やかな日を過ごすに至るので、落差に思いを馳せた。戦後が最後の神話の時代というのは、自殺者を供養する山の民や発狂し妹に扮して徘徊する美男子という浮世離れした要素、迷路のような屋敷で白いシャツを着て過ごす赤朽葉の人々や金の簪を刺し花嫁御寮で餅を撒く成金の黒菱と対照的に、黒煙にまみれ色褪せた作業服をまとい喘息になりながらも働く団地の人々に表される極端な貧富、インターネットのない隔絶した田舎というふうに、ハッキリと世界に境界が引かれていた様がどこか物語的に感じ納得感があった。
泪、毛鞠、鞄、孤独等の記号的な名前、スケバンのアイドルの立ち位置を青春と称してあっさり捨てて女子校で世間知らずで思春期の少女たちを扇動して売春斡旋する擦れた美少女のチョーコ、愛人の娘で本妻の娘たる腹違いの姉に執心し追いかけ回して恋人を寝とりまくった百夜など、登場人物がキャラクター的なところも読みやすかった。
葉子が初めに幻視した空飛ぶ男の真相が明らかになるとともに、新世界の象徴であった豊寿が旧世界の象徴として自死し、かつて本人が誇りをもって言った製鉄と共に生き死ぬという言葉が悲しい意味を帯びてしまうのも、彼がかつて旧時代に取り残された父を侮蔑していたのを思い出し悲しい。豊平が葉子と想いあっていたのは、ともに最後の神話の時代を生き、だんだんの下で育ち、子育てに共通の苦悩を抱いていた共感と親愛が最後まで続いた喜びもあるし、葉子が豊寿を愛していたから文字を読めないことを隠したいじましさが悲しいお別れに繋がったのが切なさもある。ただ、その全てが終わったあとに明らかになるため、どこか決着をつけたような感覚があり不思議と悲しさよりもノスタルジックな切なさがあった。