- Amazon.co.jp ・電子書籍 (273ページ)
感想・レビュー・書評
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そんな簡単に物事って分類できないよね、って森さんはいつも言ってる。人間も世の中ももっと複雑だよね。自然科学のすっきり感とは違う。そして、問題はその複雑な問題を単純化して語る私たちにある。
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オウム真理教を内側の視点から撮ったドキュメンタリー『A』の監督森達也がドキュメンタリーを語った本。著者はそれを「偏愛」というが、ドキュメンタリーに対する思いが最もストレートに言葉として表現されている著作だ。
著者は、『A』の発表後に『職業欄はエスパー』、『よだかの星』、『放送禁止歌』、といったTVドキュメンタリーを制作している。また『A』や『A2』も国際的には評価され、海外含めたいくつものフェスタにも参加している。それらの経験に加えて、古今東西のドキュメンタリー作家の事例も紐解きながら、ドキュメンタリーについて著者としての思いを模索をして言葉にしている。
『ドキュメンタリーは嘘をつく』というタイトルが示す通り、ドキュメンタリーはどこまでいっても撮影者の主観から逃れられないし、公正中立という立場は原理的にありえないというのが著者の一貫した立場である。主観で切り取った映像に対して、編集作業という作為が施されて完成するものに「中立や客観などの概念が入り込む余地などまったくない」と言い切る。逆に、ドキュメンタリーにおいては思い込みや間違いやエゴを入れざるを得ない。著者は、そのことを「ドキュメンタリーは一人称だ」という。もっと恰好をつけて言うと、「ドキュメンタリーは監督という主体が提示する現実へのメタファーなのだ」ということだ。そのことに対して常に自覚的であり、煩悶と葛藤を抱くことだけが許されうる姿勢であると考えている。その認識は、図らずもTV局を離れて、ひとりでカメラを回してドキュメンタリーを撮り、その過程で煩悶することで明確になったものだと思われる。
そして、「自らが正義であると思い込んだメディアは暴走する」と書く。そして、それはすべてのメディアにとって対岸の火事ではなく、原理的に常について回るものなのである。この言葉は、やらせの横行というTVの不祥事を暗示していたとも言えるし、朝日新聞の顛末を予言していたとも言える。
また著者は、メディアの現状に対して別の意味でも憂いを抱いている。その象徴的な事態が、テレビにおけるナレーションとモザイクの多用だ。著者はナレーションの手法を嫌う。モザイクの手法も嫌う。いずれも、一人称の作作品としての不備であると思うのだ。『A』にはほとんどナレーションがないし、モザイクもない。モザイクがないことを撮影の条件にさえしていた。
ナレーションやモザイクに対する抵抗感の喪失について、著者は「葛藤や煩悶の欠落」だという。著者は一人称として映像を作るときに常に葛藤や煩悶を抱えて編集作業を行うべきものであるからだ。ナレーションやモザイクはその作業をスキップしてしまう。
一方、メディアの問題に対しては、その受け取り手である消費者の責任でもあるという。メディアは市場原理に従い、消費者の求めるものを提示することしかできない。しかし、その前にメディアは煩悶すべきだという。ドキュメンタリーは葛藤すべきだという。マイケル・ムーアの『華氏911』に対しても、煩悶や葛藤の欠如を理由として評価できないとする。
著者は、売上や知名度ではとても適わないムーアを引き合いに出して、自らのドキュメンタリー愛について語る。
「ムーアはきっとドキュメンタリーを愛していない。僕が言えることはそれだけだ。僕は愛している。偏愛している。なぜか?といわれても困る。この質問は、なぜ撮るのか?との根源的な質問に重複する。他者を加害し、隠していることを引きずり出し、さらには自分をも傷つけるのに、なぜあなたはドキュメンタリーを撮るのかと」
熱い思いがこちらにも伝わってくる本。