- Amazon.co.jp ・電子書籍 (170ページ)
感想・レビュー・書評
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「数学する身体」にユニークな世界的数学者として紹介されていて、読んでみたくなった岡潔のエッセー。1963年の作品。
本書には、数学のことも描かれているが、その多くは教育論に割かれている。それも、戦後教育をこき下ろしたかなり過激な内容だった。例えば、「戦後、義務教育は延長されたのに女性の初潮は平均して戦前より三年も早くなっているという。これは大変なことではあるまいか。人間性をおさえて動物性を伸ばした結果にほかならない」とか、「最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲なことにあると気づく。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う」とか、「さし当って教育をどう改めていくかであるが、経験から学ぶのが科学であるからには、暗中摸索するよりは、戦前に戻してそこから軍国主義を抜けばよい」、「日本の教育は明治からこのかた、悪いほうへ悪いほうへと行っている」等々。
著者は、情緒を育む情操教育の大切さを説いているが、戦後生まれ戦後育ちの自分にはあまりぴんとこなかった。戦前の教育、そんなに素晴らしかったのかなあ?? 旧制高校のエリート教育(かなり素晴らしかったらしい)をイメージしてるのかと思いきや、そうでもないみたいだし(「日本の危機もまた教育、特に義務教育から来ている」と書かれているし)。
戦前育ちの偏屈じいさんの恨み節、と読めてしまう(今の若者はなってない、古き良き日本の素晴らしさを思い出せ、的な)。失礼しました。
仏教に傾倒していたという著者。無差別智とか分別智とか、仏教哲学的でユニークな論説も多かった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
数学者といえ、圧倒的な文章の美しさ
昔の方はやはり文章が美しいのか
この方の知性品性なのか
情緒
情操教育
無差別智
解がおりてきて、分かるって、きっと本能的になにかがわかるあれだと思う -
天才は凡人の考え、価値観がわからず、苦労しているようだ。
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■■評価■■
★★★✬☆
■■概要■■
○天才数学者の岡潔氏が書かれた、1963年頃、当時の教育に関して意見を言うという本。数学者というぐらいだから論理的なことを大事にするのかと思えば、確かに数学は論理的な学問ではあるが、最も大事なのは人の情緒だという。人の中心は情緒だから、それを育てなければ数学をわからないばかりか、人の成熟にも繋がらないとしていて、当時の教育、詰め込み教育で画一的かつ、早くから頭角を表すことが良しとされるものに対して、痛烈にNOと言っている。
○読むきっかけは、アバタロー氏のyoutubeで取り上げられており、読んでみようと思ったところである。
○60年前の問題意識の中で育てられた人たちは、今70歳前後の人達なのかと思う。その世代が何を大事にしてきて、アイデンティティを何に持っていたか。いい面と悪い面とを見て客観視することで、今の自分達が主役として生きる世の中に対して、一石を投じることになるのかなと思った。情操教育がされていないと言いながら、花を愛でる人はその世代には多いと感じることもある。一方、高度経済成長期で価値は物に宿るという考え方も一般に多いのだと思う。右肩上がりの時代においては、人の価値観や情報を飲み込んでいくだけで、自分で物を考えないで、ただただ世間の価値観に沿って生きていれば、それなりに暮らせたし行きていけた時代なのかと思う。今はその時代よりも厳しく、人口分布・経済成長はキープから右肩さがりの時代。価値観を世間に置いてしまっては、嫌なニュースや出来事、批評家たちに足を引っ張られて沈んでいく気がしている。自分でいいと思うこと、大事にしたいこと、決めたこと、心が動かされること、変化すること、楽しむこと、そんなことを大事にして、生きていかなければならないと思った。 -
スミレのように生きよう、と思った。
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以前から直観が大切だと思っていたが、詳しく分析されていて参考になった。
〇すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だ。
〇その人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にある。
〇いまから年齢などにあまり重点をおかない習慣をつける方がいいだろう。年長者を大事にしろというしつけをしていると、将来困ることが起きるかもしれない。
〇漱石なら「明暗」が一番よくできているが、読んでおもしろいのは「それから」あたりで、「明暗」になるとおもしろさを通り越している。
〇何事によらず、力の強いのがよいといった考え方は文化とは何のかかわりもない。むしろ野蛮と呼ぶべきだろう。
〇ショーペンハウエルの「バッカスの酒神の杖を持っている者は多いが、バッカスの風貌を備えている者はまことに少ない」ということばも「杖」は手段「風貌」は文化のことで、おそらくギリシャまで戻れといっているのに違いない。
〇理性と理想の差違は、理想の中では住めるが、理性の中では住めないということに尽きる。
〇理想とか、その内容である真善美は、私には理性の世界のものではなく、ただ実在感としてこの世界と交渉を持つもののように思われる。
〇理想はおそろしくひきつける力を持っており、見たことがないのに知っているような気持にさせる。
〇真善美は、求めれば求めるほどわからなくなるものだと思う。わからないものだということを一般の人たちがわかってくれれば、それだけでも文化の水準はかなり上るに違いない。
〇室内で本を読むとき、電燈の光があまり暗いと、どの本を読んでもはっきりわからないが、その光に相当するものを智力という。
〇わかったかわからないかもはっきりわからないのに、たずねられたらうなずくといったふうな教育ばかりやってきたために違いない。
〇情緒の中心が人間の表玄関であるということ、そしてそれを荒らすのは許せないということ、これをみんながもっともっと知ってほしい。
〇人の悲しみがわかること、そして自分もまた悲しいと感じることが宗教の本質なのではなかろうか。
〇奉仕的な活動は、おおらかに天地に呼吸できるという満足感を与えるけれども、それは理性の世界に属することだと思う。いまも普通は宗教的な形式を指して宗教と呼んでいるようだが、これは分類法が悪いのだという気がする。
〇宗教の世界には自他の対立はなく、安息が得られる。しかしまた自他対立のない世界は向上もなく理想もない。人はなぜ向上しなければならないか、と開き直って問われると、いまの私には「いったん向上の道にいそしむ味を覚えれば、それなしには何としても物足りないから」としか答えられないが、向上なく理想もない世界には住めない。だから私は純理性の世界だけでも、また宗教的世界だけでもやっていけず、両方をかね備えた世界で生存し続けるのであろう。
〇特徴は「直観から実践へ」ということで、直観には三種類ある。第一種は人に実在感や肯定感を与えるもので、平等性智とも呼ばれる。この直観を働かせようとすればエネルギーを大いに消耗する。第二種の直観は、たとえば俳句や歌の良いしらべを良いと断定する直観である。第三種の直観、これは、無意識にいったり行動したりしたあとからそれに気づく、そんな直観で、自分の言動をふりかえってはじめて直観のあったことに気づく。妙観察智といわれるものもこれで、直観からただちに行為へと移れるものもまた、この第三種のものだけで、一刀流の極意である夢想剣は、流祖 伊藤一刀斎 から 神子上典膳 に伝えられ、最後は 山岡鉄舟 で終りとなっている。第三の直観というのがわかってくれば自然にこの鉄舟のようないき方になるので、日本人は昔からここのところがよくわかっていたと思う。
こうした行為を批判できるのは第一、第二の直観を備えた上に第三の直観もわかるという人だけである。
〇三つの直観を合せれば本当の智力というものになるのだが、ふつうは第一の直観だけをそれと思っているらしい。本当の智力を真智と呼ぶとすれば、その上に垢のついている状態が妄智で、さらに外側にもう一重の垢の付着しているのが邪智である。
〇この国の善行は「少しも打算、分別の入らない行為」のことであって、無償かどうかをも分別しないのである。
〇このような打算も分別もはいらない行為のさいに働いているもの、それが純粋直観である。
〇智力に二種類の垢がまつわりついている。外側のものを邪智、または世間智、内側のものを妄智、または分別智といい、これに対して智自身を真智という。
〇大衆のこころの不変の特徴は、ものの欠点だけが目につくこと、不公平が承知できず、また全くこらえ性がないことである。
〇そして、悪いのは自分でなく他人だと思いこむことである。しかも邪智にはいくらでも悪質のものがあり得る。全く底が知れないのである。
〇無差別智は純粋直観といってもいいし、また平等性智といってもいいが、一言でいえば自明のことを自明とみる力である。
〇無差別智というのは、意志を働かせることによって働く智力ではない。個人の意志よりももっと大きいものの意志があるとすれば、その意志のまにまに向うから働いている。
〇どうにか社会の秩序は保たれて来た。この秩序を保ったのは何か。それは道義心にほかならない。
〇義務教育は何をしなければならないかとなると、これは道義的センスをつけることの一語につきるのであるまいか。
〇何かについて述べた意見を人がよく聞いてくれそうになったり、書物を書いてよく売れたりしたときに、朝ふと目がさめて自分のいっていることに不安を覚える。この不安な気持が理性と呼ばれるものの実体ではないだろうか。
〇いまの学生で目につくことは、非常におごりたかぶっているということである。もう少し頭が低くならなければ人のいうことはわかるまいと思う。謙虚でなければ自分より高い水準のものは決してわからない。せいぜい同じ水準か、多分それより下のものしかわからない。
〇人の基本的なアビリティーである他人の感情がわかるということ、物を判断するということ、これは個人の持っているアビリティーであって、決して集団に与えられたアビリティーではない。
〇数人寄ってディスカッションをしないと物を考えられなくなる。しかしそれでは少なくとも深いことは何一つわからないのだ。
〇これから数学をやりたいと思っておられる方に何よりもまず味わっていただきたいと思うのはアンリ・ポアンカレーの「数学の本体は調和の精神である」という言葉。
〇本だって読むことより読みたいと思うことのほうが大切なのだ。
〇一番深いのはシューマンで、フィヒテの哲学に並ぶものだと思っている。ただ、シューマンにしろフィヒテにしろ、本当に深いと思うものは幾分退屈だということも事実である。
〇私の好きな文学者をあげれば、まず 芥川、 漱石、そして 芭蕉 ということになる。芥川はまことに一筋に理想を追い求めた人といえる。「東洋の秋」「尾生の信」などを読めば、なるほどとうなずかれるに違いない。小宮豊隆 の「夏目漱石」を参考にすればよく、漱石の文学の深さをあらわすものとして、亡くなる年の夏、芥川に送った手紙の次のような一節がある。「自分はこの夏は、午前中創作を書き、午後は籘椅子を持ち出して庭の緑蔭を楽しむのであるが、午前中の創作活動が、午後の休息の肉体に愉悦を与えるのを例としている。自分は文学はここまで来なければうそだとおもう。」
〇外国ではジイドがいい。
〇好きな画家は 大観 と 久隅守景、外国ならゴッホ、ラプラードなどである。
〇私の読んだ中では、文学者で女性が本当に描けていると自信をもっていい切ることのできる人は、日本では 漱石、外国ではドストエフスキーぐらいではなかろうか。
〇ことばを聞いてわかるというが、それで内容までちゃんとわかるということはない。
〇文学には波動型のものと粒子型のものとあるといえる。作品にも、作者にもそれはあてはまる。粒子型というのは、 芥川龍之介の使っている「詩」という言葉のわかる人、つまり直観そのものがわかる人である。
〇芭蕉は人生は旅のようなものだといっている。私にも、人は長い旅をするもので、人生とはその旅の一日であるような何だかそんな気がしている。
〇高木貞治先生の「アーベルとガロア」をぜひお読みになるようにすすめたい。同じ高木先生の阪大での講演をまとめた「過渡期の数学」という小冊子とともに、非常におもしろく書けている。私自身もこの本からだいぶん教わっており、名著といえると思う。
〇「情緒の構造」とは、「自然が人間にさしだしてくれるもの」を上手に受け取って生きるための通路の仕組みなのである。それは正しく、美しい生き方を可能にしている。 -
情操教育が大切というのはその通り棚と思う。数学者と物理学者の違いの説明も新鮮。