アクト・オブ・キリング オリジナル全長版 2枚組(本編1枚+特典ディスク) 日本語字幕付き [DVD]

監督 : ジョシュア・オッペンハイマー  クリスティーヌ・シン 
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  • Amazon.co.jp ・映画
  • / ISBN・EAN: 4988021143486

感想・レビュー・書評

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  • 実際の大量虐殺者にカメラの前で自らの殺人を演じさせるという前代未聞のアイディアと勇気を持った映画。
    単なるドキュメンタリー映画ではない。
    こういう手法のものは初めて観た。

    内容は……

    見終わったばかりでまだ言葉が出ないです。
    圧倒的な「悪」に打ちのめされた感。
    人間はここまで残虐になれるのかと。



    少し落ち着いてからブログに追記しました。
    http://zazamusi.blog103.fc2.com/blog-entry-1739.html

  •  1965年のインドネシアで共産党狩りによって100万人の命が奪われた。虐殺を行ったのはプレマンと呼ばれる青年団などの一般人だった。
     あれから50年。それなりの地位を築き、過去の虐殺を誇りさえするかつてのプレマン達は取材に応じるだけでなく、当時の再現映画を自らつくりはじめる。
     禁断のドキュメンタリー映画。

     自分達の虐殺を正当化し、自慢さえするブレマン達だが、この映画を見ると彼らが実は深層では深く傷つき苦しんでいるのが分かる。
     否認と心の闇の間で揺れる彼らは混乱し、終始支離滅裂な言動をしている。爺さん達のしょぼい再現映画撮影とあいまって、この映画は不気味な笑いを提供している。
     さらに彼らの残虐行為は社会に暴力の恐怖と不正義の横行を残し、本人達だけでなく社会に深刻な爪あとを刻んでいる。
     これはドキュメンタリー映画でしかできない。あの表情、困惑、混乱はドキュメンタリー映画でしか撮れない。2時間半を超える長い映画だが、どのシーンも重要で見逃せない、

     ドキュメンタリーでしか撮れない映画だが、そもそもこんな企画は狂気の沙汰だ。この映画は壮大な反則映画なのだ。

     私はてっきり再現ドラマを重ねてくことで彼らがある種の癒やしを得るのかと思った。だが、そんな生易しい心の闇ではなかった。彼らは明らかに壊れていってしまってるように見えた。
     彼らはその後どうなるのか。。。こりゃ続編の『ルック・オブ・サイレンス』も見ないわけにはいかない。

  • 少々見るのをためらっていたが
    悲しい歴史を持った国は様々あるが
    インドネシアにこんな歴史が横たわっていたとは
    知らなかった。

    プレマンというヤクザな輩による
    防共のための措置、国を守るという大義名分の下
    数え切れないほどの同胞の命奪い
    所業の恐ろしさゆえ誰も逆らうことの出来ない社会
    閣僚から場末のチンピラまでプレマンが幅を利かせている
    社会になったインドネシア。

    しかし大義名分は美化されプレマンは英雄となった。

    今作品は監督の企画を受け入れる形で自ら英雄伝的映画を作るという
    名目で自らの所業を目の当たりにして美化することで封印した
    殺戮の記憶を自ら語ることで当の本人たちに生々しくよみがえる。
    あまりの非道的、かつ残忍な自らの行いに
    耐え切れなくなっていく彼等の姿を追いかけたドキュメンタリー。

    余りにも多くの死ぬべきでないかもしれない人を
    殺した彼らはどう理由をつけようとも
    許されはしないということを感じる。

  • 非常に衝撃的な一作。こういう映画がかつてあったかと。
    かつて虐殺を犯した、英雄気取りの男の日常と、心情と、インドネシア社会。
    始まりと終わりで全く違う男の表情。それを映画として切り取っていること、いや、映画がその違いを生じさせたこと、これが何と言ってもこの映画のすごいところだ。

  • ハンナ・アーレントの言う「悪の凡庸さ」という言葉が、終始、頭を離れなかった。
    自分のしたことは仕方なかった、間違っていなかったと繰り返し、嬉々として再現映像の制作に取り組む姿。自分たちが国際法に違反しているというならブッシュはどうなんだと居直る姿。
    そうか。
    中国の戦地で、きっと自分の祖父もこれに近いか、もっと残虐なことをしてきたんだろう。
    そして、状況が出来上がってしまえば、私も同じ罪に手を染めるんだろう。
    誰の言葉だったか忘れたけれど「人間は過ちを犯した時、最初は仕方なかったと言い、次にはそれが義務だったのだと言う」という言葉。
    改めて、深く戒めとして心に刻まれた。

    一方で、プレマンたちを嫌悪はしても、果たして自分に彼らを断罪できるだけの倫理観はあるんだろうか?と自分に問わざるを得ない。
    倫理の源は想像力。大事だけど、身につけるのも生かすのも難しい力。
    身につけた気でいる私自身の想像力も、お粗末なものでしかない。
    だから、想像力の欠如したプレマンたちの蛮行を、そう易々とは断罪できない。
    程度の大小問わず、気づかないうちに私も誰かの足を踏んでいる。踏んでいることを想像できない程度の、想像力しか持ってない。

    特典DVDでジョシュア監督が言っていた『THE ACT of KILLING』の三つ目の意味をよく考えたい。
    監督がしたかったのは、断罪じゃない。
    自分たちの内側を見つめるきっかけを作ることだ。

  • 1965年、インドネシアで大規模な赤狩りがあり大量虐殺が起こった。実行したのは軍ではなく無法なヤクザ者達。彼らは罪を問われることなく、その土地の名士になったりしている。当時の様子を今も自慢げに語る彼らに、拷問と虐殺の様子を演技で再現したもらったらどうなるのか?というノンフィクション映画。

    もう、なんて言っていいのかわからない。何もかも胸糞悪い。映画の出来がどうこうではなく、実際に起こった出来事が。その出来事を演技する彼らが。吐き気がするのはこっちのほうだ。

    こいつら全員殺したいと思った。それが観た直後の新鮮な感想。でもそれでは奴らと同じ側に立ってしまう。なんでこんなクソ野郎どもがのうのうと生きてるんだ?こんな最悪な気分になった映画は初めてかもしれない。観た後に落ち着いてから、罪悪感、教育、正当化、イデオロギー、正義、集団心理、マッチョイズム、不公平、不条理、ヤクザ、税金、権力、国、この世の成り立ち・・・といった言葉が頭に浮かんだ。悪夢のような映画ではあるけど、この世の成り立ちについて考えさせられる。昔から、そして今もどこかで似たようなことが起きているんだろう。しかしその醜悪さをこんな形で見る機会は今までなかった。傑作かもしれない。

    どうしても殺される側や残された側に感情移入してしまうが、しかし自分が殺戮者の側だったら?彼らと同じように罪悪感を持つこともなく、自分を正当化して何食わぬ顔をして生活しているかもしれない。そしてまさかとは思うが、もしかして彼らに感じる憎悪は、「自分達が法律だった」と言い、こんな酷いことをしても裁かれない彼らへの嫉妬の裏返しではないか?無法な強者への憧れなのではないか?と想像すると本当に恐ろしい。

  • 47人目のインタビューで出会ったというエピソードは、本気度を感じた。
    きちんとやすりをかけた癖のないドキュメンタリー、完成度はすこぶる高い。そして切り口が極めて斬新。
    構造の悪を抱えるのも結局は個別具体的な個人なのですね。。

  • 60年代のインドネシアで実際に起きた100万人規模の大虐殺。それを行った民間組織メンバーの現在を追うドキュメンタリー。本作が面白いのは、メンバーの彼らに当時の虐殺の様子を演じさせるという点だ。
    最初は過去の栄光として誇らしげに語る彼らだったが、演じていく過程で次第に顔に陰りが見え始め、終盤には後悔の念を語る。
    取り扱う題材、演出としては一級品だが、惜しむらくはその上映時間の長さ。166分という長尺で冗長な部分が多く、細切れの映像という印象。

  • 記録映画的な作品。扱われているのは、9月30日事件で、1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデターのこと。斬新な撮影手法は、役者を使わず実際の殺人実行犯がその手口をカメラに向かって彼ら自身に語らせる。まるで、「人を殺せば殺人となるが、戦争の旗印で殺せば英雄となる」という作品冒頭の言葉を裏付けるかのように。
    概要:
    クーデターを起こした国軍部隊は権力奪取に失敗しているので、正しくは「クーデター未遂事件」とするべきであるが、一般に未遂事件後のスハルト陸軍少将による首謀者・共産党勢力の掃討作戦に関連する一連の事象全体を指して「9月30日事件」と総称している。
    事件の背景として、国軍と共産党の権力闘争、スカルノ大統領の経済政策の失敗にともなう国内の混乱、マレーシアとの対立により国際連合脱退まで至った、国際政治におけるインドネシアの孤立などがあった。この事件を契機として、東南アジア最大の共産党であったインドネシア共産党は壊滅し、スカルノは失脚した。
    9月30日事件の詳細な経緯については、スハルト政権崩壊後の今日においても、未だ多くの謎に包まれている。インドネシア共産党と近い軍人を使って反共的な将軍らを排除しようとしたスカルノと、インドネシア共産党と親密であった中国共産党の双方が関与していたという説。スカルノの排除を狙うスハルトが仕掛けたカウンター・クーデターであるという説。スカルノの左傾化と中華人民共和国への急接近を警戒したアメリカ合衆国の中央情報局が背後にいたという説など、さまざまな陰謀説が主張されているが、いずれも推測の域を出ていない。
    スカルノは1970年に死亡し、スハルトが2008年1月27日に死亡したため、本人の口から事の真相を聴くことは不可能となり、また事件後の「共産主義者狩り」に動員された人々の多くが被害者側からの報復を恐れて口を閉ざしていることも、事件の全貌を解明することを難しくしていると言える。しかし近年、9・30事件をテーマとした映画が制作され、インドネシアでも上映されたことをきっかけに、事件の真相究明を求める動きが広がっている。
    9月30日事件はスカルノとスハルト、両者の力関係を完全に逆転させた。スカルノ大統領から治安秩序回復の全権委任を得たスハルトの主導のもと、クーデター首謀者とされたウントゥン大統領親衛隊隊長の拘束が行われ、また事件に関与したとして、インドネシア共産党のジャカルタの施設が10月8日に市民の手で焼きはらわれ、中国語教育や文化活動も同時に禁止された。
    さらにその後インドネシア共産党書記長のアイディットをはじめとする共産主義者約50万、特に40万人の華僑に対する集団虐殺が起きた。「20世紀最大の虐殺の一つ」とも言われ、50万人前後とも、最大推計では300万人とも言われるその数は、今日でも正確には把握されていないが、こうした共産主義者を中心とした残虐な大虐殺は、事件直後の1965年10月から1966年3月ごろまでスマトラ、ジャワ、バリで続いたと見られる。インドネシアの国民的作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールもこのとき拘束され、以後長い獄中生活を強いられることになった。
    このように共産主義勢力を物理的に破壊していく過程で大きな役割を果たしたのは国軍の他、「共産主義者狩り」に動員された青年団、イスラーム団体およびならず者集団であった。
    一方のスカルノは「国父」としての地位は保ったものの、全ての役職をはく奪され自宅に事実上の軟禁状態におかれ、さらにデヴィ夫人たちと多くの家族が国外に政治亡命、離散するという失意の状況におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去した。(ウィキペディア)

    『アクト・オブ・キリング』(原題:The Act of Killing)は、2012年制作のイギリス・デンマーク・ノルウェーのドキュメンタリー映画。

    概要:
    1965年、時のインドネシア大統領・スカルノが陸軍のスハルト少将のクーデターにより失脚、その後、右派勢力による「インドネシア共産党員狩り」と称した大虐殺が行われ、100万人以上が殺害されたといわれている、9月30日事件を追った作品。
    当時、虐殺に関わった者たちを取材し、彼らにその時の行動をカメラの前で演じさせて再現するという手法をとった異色のドキュメンタリー映画である。
    なお、製作に関わった多くの現地スタッフは、事件がインドネシア国内では未だにタブーであり、名前を明かすことが様々な危険を伴うとの理由から、「ANONYMOUS(匿名)」としてクレジットされている。
    スカルノの第三夫人であったデヴィ・スカルノは本作を高く評価し、監督のジョシュア・オッペンハイマーに「9月30日事件の真実を明らかにし、夫の汚名をそそいでくれた」と感謝の意を表している。
    2014年には姉妹編『ルック・オブ・サイレンス』が公開された。(ウィキペディア)

  • 1965年、軍がインドネシア政府を制圧し250万人の共産主義者が虐殺された。実行者はプレマン(フリーマンが語源)と呼ばれる民兵集団によるものだった。殺人を行った者たちは英雄のように生きている。
    そんな彼らに自由に当時の再現ドラマをしてもらう、というドキュメンタリー。
    インドネシアでは現在も反共を法律として選挙活動でも最大の民兵組織であるパンチャシラ青年団が大きな組織票となっている模様。
    今回殺人者アルマンに同行していたプレマンのリーダーが出馬した目的が金を得るために理由なく脅すことを堂々と語っていてどういう思考回路なのか理解に苦しんだ。彼は落選したのがせめてもの救いなのか…裏金は公然とあると語られる、金を握らせないと活動に来ないとまで言うインドネシアの政治に驚きを覚えるが、今の日本の政治家を見ていても同じか…。
    アルマンの隣人も撮影に参加し、虐殺される側の話をしだしたところが最初のインプレッションだった。華僑の継父が当時11~12歳の頃連れていかれて翌日死体を見つける。しかし運ぶのも埋めるのも誰も手伝ってくれなかった。そして華僑だからと森へ住むところを追われたという。笑いながら語る声が高くなっていくのが、普段どれだけ自制抑圧しながら生きてきたかを思わされた。華僑役として尋問に会う彼の涙は胸が裂けるようだった。
    最初、殺人者たちは意気揚々と語り今でも当時の正しさを口にするが、撮影を進めるにつれ自分が拷問される側となり、またエキストラの子供の泣き顔をみて、蓋をしていた罪悪感が開いたようだった。
    殺人を犯した場所で嘔吐するシーンは真に迫る。
    これは法律などで罰せられなかった彼らに自らの良心に基づいた罪を意識をさせることが目的だったのだろうか。
    それにしてもインドネシアの反共教育映画、トラウマすぎると思う。

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