本書の冒頭でジェイムズは哲学とは自分のフィーリングに基づいて作られ、選ばれるという考えを率直すぎるほど明快に述べている。
そのフィーリングは大きく分けると二つの趣味嗜好によって分かれているんだと。
①合理論:主知主義、宗教的、観念的、精神の重視
②経験論:唯物的、実証的、科学的、現実の重視
これら合理論的な気質と経験論的な気質の配分が多くの思想のグラデーションを彩っているとジェイムズは考えているようだ。
これら二つの潮流は根底において、ある切ない理念を共有する。
「真に正しいものは何か?」つまり「真理」と呼ばれるものに対する”執着”において両者は、仲は悪いが血の繋がった兄弟のように振舞う。
わたしが読み取ったプラグマティズムとはこの執着に囚われず、あらゆる思想や言説を評価する態度のことだ。一個の思想というより、態度、スタンスといったほうが近いと思う。
プラグマティズムは物事の本質や認識的真理よりも、それが実践の中で有機的に機能するかどうかで物事を評価する。真理性よりも、その言説がいかに人を救い、鼓舞するのかが一つの価値尺度となりえるわけだ。
「宗教には何ら科学的根拠が見いだせない。ゆえに価値なし」
「この思想は論理的に矛盾をきたしている。全くお話にならん」などなど。。。
これら「真実ではないから価値がない」式のある意味、最も安易な帰結に対する率直すぎるアンチテーゼがプラグマティズムの核心なのではないかとわたしは理解した。
ジェイムズは別のところで「哲学とはヴィジョンである」と語っているが、
それを踏まえると哲学とはそれぞれ独自の認知的なフレームとレンズで形作られたメガネのようなものだと考えたくなってくる。
各時代、それぞれの人生経験などから自分好みの認知の枠組みを用途に応じて耳にかける。
そこから見える視界が自分にとってクリアであることが何よりも重要で、それこそが哲学なり、思想なりの目指しているものなんじゃないかと。
そう、考えたくなってくるわけだ。