NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2016年 4月号 [雑誌]

制作 : ナショナル ジオグラフィック 
  • 日経ナショナルジオグラフィック社
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  • Amazon.co.jp ・雑誌 (154ページ)
  • / ISBN・EAN: 4910068470461

感想・レビュー・書評

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  • ●「インドネシア 亡き家族と暮らす」という記事で、家族の遺体と共に過ごしている人々の写真が掲載されている。死者とのつながりを写し取った一枚一枚に圧倒された。

  • 借りたもの。
    現代の死生観の定義、医療現場、宗教、そして歴史(戦争)から紐解いていく。

    医学的な死の定義、脳死は人の死なのか、死(脳死)に至る5つの段階、低体温症のおかげで生還する話、未来の技術で蘇生する可能性に賭ける者……肉体・生命活動の維持に関する話。
    脳が死んでも心肺を動かし肉体を維持する事ができるようになったり、心肺停止しても脳の機能維持が可能になった、現代の医療に、死生の境界を問う。

    臨死(実死)体験――蘇生した人々が語る幽体離脱や不思議な体験(精霊?天使?に遭遇したり、光やその中にいたり、多幸感を味わったり)は共通項がある。それは一体何なのか?本当にそんな世界が存在するのか、それは脳の機能がもたらす現象にすぎないのか?
    神経学者ケビン・ネルソンは意識障害による幻覚(現象)と見ている事を取り上げる。
    別の学者は瞑想に関連があるガンマ線が高まる事を指摘し、これが臨死体験の原因ではないかと解釈する。
    まるでニワトリタマゴのようだ。
    ”瞑想は高次元の存在と繋がる”境地に至ることを目指すが、その結果ガンマ線が出るのか(そもそも何で?)ガンマ線が高まることで”高次元の存在と繋がったような感覚になる”のか、その答えが無い。

    宗教的な死生観――
    死を”終わり”と認識する欧米の死生観と、その人は死んでも連綿と繋がる血脈や絆から死生を一帯と見なすもの、死は永久の別れでの哀しみではない等……

    戦争による死――
    それは残酷さや嫌悪だけでなく、その後どう生きるかを提唱する。
    二度と悲劇を繰り返さないために忘れないこと……(しかし記憶は薄れる)
    それがどれだけ非人間的・不道徳なことか……(そこに赦しは無く、連綿と憎悪が語り継がれる)
    「このままではいけない!」と思う者達と、被害者であるという意識の反動による団結は一歩間違えると排他的なナショナリズムになる。

  • 生と死
    死者と寄り添う習慣に驚く
    世界は広い

  • キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を読んだ時のことを思い出した。どんどん死を遠ざける風になってきているけど、死を受け入れる心構えとかが重要な気がする。
    メメント・モリとかアンネ・フランクの「私の望みは死んでもなお生き続けること!」といった言葉も思いだした。

  • 特集記事の「生と死 その境界を科学する」。
    人が死ぬとき、すべての活動がぱたりと止まるわけではない。心臓が止まってからも、しばらくの間持ちこたえる臓器もあり、不可逆的な損傷を受ける時間は臓器によってさまざまである。心臓や腎臓は血流が30分止まると再起不能だが、肺は2~4時間は機能可能だ。多くの場合、死は瞬間に訪れるというより、一連の流れを伴うものなのだ。
    医療技術の発達に連れ、生と死の境界に曖昧な部分にスポットが当たってきている。例えば、脳死は、人によって死と認めるか見解が分かれる。生命維持装置を付けなければ生命活動が営めない状態を果たして生と呼ぶのか、死と呼ぶのか。
    臨死を科学的に解析する研究が進みつつあり、脳死に至るまでのプロセスがわかってきている。心停止に陥った場合、短期記憶、認知機能、運動機能、感覚(五感)が徐々にダメになり、最終的に呼吸器と循環器を制御する脳幹がやられて脳死となる。
    脳死と判定されて蘇生される例もあり、そうした場合にはときに、「臨死体験」をする人がある。精霊が現れて励ましてくれたり、まばゆい光が見えたりといったことだ。現世に残されて悲しんでいる肉親が見えるなど「幽体離脱」を体験する人もいる。
    こうした「蘇生中の記憶」に取り組む科学者もいる。生と死の「境界」で何が起こるのか、少しずつ見えてくるものがあるかもしれない。

    一方で、死はまた、残された生者が死者に別れを告げるものでもある。
    日本の場合、葬儀までの間に「通夜」という時間が取られるのが一般的である。もちろん、生物学的に蘇生が起きないかを確認する意味もあるのだろうが、これはまた、生者が死者と本当に別れるため、気持ちの区切りを付ける、1つの儀式と見ることもできるのかもしれない。
    この「通夜」にあたる部分を非常に長く取る部族が紹介されている。インドネシア辺境の山岳地帯では、死者を直ちに埋葬せず、防腐処理を施して、家に置いておく習慣がある。数ヶ月、ときには数年間、食事を運び、話しかけ、遺体に寄り添って過ごすのだという。
    いよいよ埋葬となった際は、盛大な葬儀が行われる。結婚式に欠席することは許されても、葬儀には必ず参加しないとならないほど大切な儀式だ。水牛が何頭も生け贄として捧げられ、広場は赤く染まるという。生と死が交錯する特異な時間が流れる。
    生者が心の底から死者と別れるには、実はそんな時間が重要なのかもしれない。


    *先頃、数ヶ月の闘病生活を経て、義父が亡くなりました。入院を嫌った義父のため、義母が踏ん張り、在宅のまま旅立ちました。家政の大きな決めごとは義父が取り仕切る習わしだった2人。逝く前は少し認知障害も出てきてはいたのですが、義父は義母に約束したのだそうです。「行った先で家を探しておく」と。義母は「お掃除しておいてね」と頼んでおいたのだとか。本当の意味での2人の「終の棲家」です。こんなことをいうと、ドライで合理的だった義父には苦笑されそうですが、「それも『愛』だよな」と思いました。特集を読んでいたら、何だかそんなことを思い出しました。

  • ものすごいいい特集だった。考えさせる文章。

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