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感想・レビュー・書評
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1917年11月7日のミュンヘン大学の講演記録である。1914年から、第1次世界大戦が始り、1918年11月に終結した。1500万人近くが死んだ悲惨な戦争だった。産業革命と技術革新によって戦争技術が向上し、たくさんの死者をつくった。そのまさに、戦争の最中に行われている。また、1917年は、ロシアにおいてレーニンによる革命が起こった年でもある。そして、第1次世界戦争が終わった1919年に発刊された。ウェーバーは、1920年に56歳でスペイン風邪によって亡くなっている。もう少し長生きしたら、ドイツでのナチスの対等に対して、どう見たのだろうか。ドイツは敗戦が明らかになりかけている時の講演で、「学問が人生や世界の意味を明らかにしてくれるのではないか?」という学生たちに、学問とは「ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られる」と言い切る。それは、芸術と変わらないという。ただし、科学的な成果は、進歩の過程に縛られるという。科学は、時間が経てば古びてしまう。科学的な成果が得られれば、新たな問題をうみ、越えられることを求めている。
トルストイの苦悩は、死は果たして意味のある現象なのかという問題を問い続けた。無限の進化の中におかれた文明人の生は、その内在的な意味により、決して終わることはない。文明人は「生に飽きる」ことがあっても、「生に満足する」ことはない。
プラトンの熱狂は、概念という、科学的認識の祭壇の手段を、はじめて自覚的に発見した事実によって説明される。美や善、あるいは勇気、魂など正しい概念を見つけさえすれば、その真の実在を把握できると思われた。それは思想とは政治的思索だったからだ。このギリシャ精神と共に、ルネッサンスの申し子として生まれた科学研究、合理的実験が行われ、科学として成り立つようになった。16世紀の音楽、ガリレオによる実験による科学、そしてベーコンの理論として厳格な科学として発展した。真の芸術の道を意味し、真の自然への道をも意味した。
それは、前提のない自由な科学、つまりは神を拒否する科学の方向もあり、価値判断が重要となる。事実と価値とは区別する必要がある。哲学者ミルは「純粋な経験から出発するとしたら、ひとは多神論者となる」という言葉をウェーバーは引用する。
時代の宿命は、合理化と知性化、そして「世界の脱魔術化」によって特徴づけられる。
イザヤ書21「セイルから、私を呼ぶ者がある。見張りの者よ。今は夜の何時か。見張りの者は言った。夜明けはちかい。しかしまだ夜。尋ねたいならば、尋ねよ、そしてまた来なさい」
ウェーバーはいう「これを語り継がれた人々は2000年以上に渡り、尋ね、待ち続けています」
さらに「あこがれを待つのみでは何も得られない。違う行動を起こすのです。職業においてだけではなく、人間関係においても、日々の要求を満たす仕事に取りかかりましょう。」と結ぶ。
ウェーバーの生きていた時は、「専門領域に徹しよ、目の前のことに、全力をあげよ」という時代だったのだ。科学者は研究者であり、教育者でなくてはならない。ただし、運が関与するという。科学者に対する期待が大きい時代でもあった。今は、専門家が、全く主観的な事実を振り回し、惑わせる状況にあるのも確かだ。
「学問に生きる者は、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度と味わえぬであろうような深い喜びを感じることができる。」という言葉が、印象に残った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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ものの考え方、わきまえ方を学ぶ。