○引用
なまじその世界に詳しい人が、相手が前提となる知識のようなものを共有しているかどうかもお構いなしに、いきなり「自分が好きな/評価している順」だとか、あるいは歴史的価値だとかに則って、言わば「正しく」何かを薦めたところで、誰も喜ばない結果になりかねないのです。従って、なんであれその道のビギナーほど、少なくとも有識者たちによる「最大公約数的オススメの集積」たる名作ガイド的なものを最初の入り口にはしないほうがいい~中略~初期段階で、「エラい人たちには間違いなく良しとされているはずのものが、自分にはまるで面白いと感じられない」というような体験をしてしまうと、~中略~そのジャンル全体に対して、ネガティブな印象が刷り込まれてしまう危険性さえあるのでは
夫婦間に友情がしっかりと根を下ろしている2人なら、大抵のことは乗り越えて行けるんじゃないでしょうか
しゃべり手としてそれなりに重宝されているとしたら、まぁ、言っている内容そのものに対する評価っていうのも一応はあるんでしょうけど、それよりも、「とにかく伝えたいこと」がいっぱいあってしょうがないっていう、大きく言えばコミュニケーションに対する熱量の高さって部分が、たぶんかなりデカいんじゃないか
本来我々が「話す」ときに一番大事なのは、「伝えるべきこと」とそれを「伝えたいという気持ち」があるかどうかであって、技量の優劣などはあくまでそれに従属する要素でしかないはずだ
色々な方からの相談を拝見していると、実は問題は相談者本人ではなく、その人を取り巻く人間関係や社会の方にあるんじゃないか、と思えることが結構多いんですよね。恐らく、自分の置かれた状況に「悩む」というその時点で、周囲より鋭敏に、そこにあるなんらかの歪みを感知しているから、なんじゃないでしょうか
相手は自分ではない以上、そのうち「合わない」ところも出てくる、絶対に。そうすると、あれだけ「合う」ところばっかりだと思ってたのに…という失望が、必要以上に大きくなってしまう。その失望自体が、実は自分勝手な話なんですけどね。~中略~「合わない」ところを受け容れ合うのが、本当の愛…とまで言っていいかわかりませんが、望ましい相互理解というものではないんですかね
後悔を含めた記憶の集積こそがそれぞれの人間性を形作り、成長させているのだとしたら…過去にさかのぼって失敗などをすべて回避、「ベストな」結果だけを積み重ねた人生、などというものが仮に存在し得たとしても、それはもはや、その人固有の人生とは言えない不気味な何ものか、でしかなくなってしまうのでは
「効率性」ばかりを高めようとしてしまうのも、どうなんでしょう。なるほど、他人の評価を聞き、間違いないと思われる情報を集め、作品選びの精度を上げていけば、「最初から観たいと思っていたような映画」にたどり着ける確率は高まるでしょう。それはそれで結構なことです。ただしそのぶん、「思ってもみなかったような映画」に出会える可能性は低くなる、という点は考えてみてもいいんじゃないか。観たいと思っていた映画と違ったからといって、”ハズレ”にカテゴライズしてしまっていいのでしょうか
ある作品との出会いとはまさしく「縁」であって、こればっかりは、他人からの「正しい」指南も、それほど役に立たなかったりする…そう考えるとホント、映画との関係って、恋愛とか友情とか、人対人の話と似てくるもので