社会的共通資本 (岩波新書) [Kindle]

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  • 人間を中心に据え、社会・文化・自然環境とともに持続的発展をしていくためには、どのような社会制度であるべきか、ということを経済学の観点から問いかけたもの。20年前に書かれたものだが、SDGsとかESGの先駆けといってもいいのかもしない。第6章「社会的共通資本としての金融制度」は特に力が入る。合理的期待形成仮説に対する反論の筆力には圧倒される。

  • 名前は少し難しいのだけれど、
    要は、経済成長や経済それ自体が置き去りにしてしまっているものを
    考えましょうよ、ということ。

    経済発展に伴う環境問題や、モータリゼーションに伴う交通事故の増加などに
    直面したとき、我々はその背後にある、大事なものは何なのだろうか、と
    考えざるを得ない。
    それが、著者いうところの社会的共通資本だ。

    本書によれば、社会的共通資本は、
    ①自然環境
    ②社会的インフラストラクチャ
    ③制度資本
    に分けて考えることができる。

    ①②は名前の通りの内容。③は具体的には、教育、医療、金融、司法、行政など。

    ③制度資本は、人的資本により実現されると考えれば、
    この3区分は、ちょうど馬奈木俊介氏の「新国富指標」の3区分である
    ・自然資本
    ・人工資本
    ・人的資本
    にそのまま対応する。

    馬奈木氏は、宇沢氏の考えを継承し、
    新たな経済指標へと発展させたのだろうか。

    フローでなくストックの、
    目指すべき持続可能な社会の現状と将来を表す指標としての新国富指標を、
    ぜひ早く世界が採用すべきだ。

  • 日本を代表する経済学者である宇沢弘文氏の本。
    惜しくも2014年に亡くなられたが、この本は2000年に発行された。

    宇沢さんがずっとテーマとされている「社会的共通資本(ソーシャル・キャピタル)」。
    それを真正面から扱っている。

    「農業・都市・学校教育・医療・金融制度・地球環境」と、まさに「社会的共通資本」を構成する各要素を網羅的に扱っている。本の分量は新書なので多くない。なので、割とどの章も触りだけに止まっている感じ。しかし、その骨子は読み取れる。

    氏は経済学者だが、おそらくは、ずっと新古典派の経済学者が進めてきた規制緩和・自由化・グローバリズム(過激な市場原理主義)の波にあらがってきたのだと思う。「経済学が人々を不幸にしていないか?」という問題意識を持って。事実、グローバリズムとは「社会共通資本」を「私有資本」化する流れに他ならない。本来は社会の構成員で受益すべき共通資本を、特定の企業や個人のみが受益するような私的資本、つまり「お金(儲け)」に変えてしまう。結果、格差が広がる。それがグローバリズムの本質だ。

    その結末は、2020年コロナ禍の今なら、どういう帰結を迎えたかわかる。グローバリズムを押し進めたアメリカの現状を見ると、コロナの死者数は7月中旬時点で12万人を超え、まだ落ち着く気配がない。現在はまだ北部の沿岸地域にとどまっているが、これから南部に広がりさらに死者数は増えるだろう。これは、まさに共通資本である「医療」を自由化した結果だ。

    日本でも、TPPや種苗法改正で「農業」を自由化し、大学受験をベネッセに委託したりなど「教育」を自由化し(廃止にはなったが)、「地球環境」に至ってはいまだに諸外国と比べて太陽光など自然エネルギーへの代替が全く進んでいない。毎年「記録的豪雨」とか報道してるのに。その原因を考えないのだろうか?

    今後、自由化の流れは進むことはあっても止まることはないだろう。3.11の傷もすでに皆忘れてしまったようだ。

    「都市」に関しても、宇沢さんがずっとテーマとされている「自動車」の社会的コストを考えたとき、日本の都市はあまりに自動車中心で作られすぎていることがわかる。私はロードの自転車が趣味なので車道をいつも走っているが、常に感じていることだ。なぜこんな自動車中心なんだろう?これだけ広い空間を、なぜ人間を押しのけてこんな鉄の塊が占有しているのだろう?と。

    宇沢さんは50年以上前から訴えられている。
    しかし、2020年現在、状況はますます酷くなるばかりだ。
    私はすでに「加速主義」の立場を取っているので止めようとは思わない。クラッシュしないと日本社会は変わらない。早い方が良い。

    しかし、宇沢さんのような昭和の偉人から学ぶことは多い。今後もいろんな本を読んで身に付け、自分の周りの次の世代へ少しでも残していきたい。

  • とびきり難解な本という訳では無いが、各論ごとにそれぞれダイナミックに主張が展開されているので中々、1つの定まった書評として感想を書くことが難しい。1つの論点(各論はそれぞれ農業、都市、学校教育、医療、金融制度、地球環境である)ごとの宇沢的な社会的正義を突き詰めると、別の論点で大幅な調整が必要になると思ったからである。

    だが、本来誰にも見せるつもりがなく勝手にメモを書いてる気で始めたので、間違っていたり、もしくは、見当外れな批判に陥ってしまっているのではないかという批判を気にせず適当に感想を書きたい。

    総論に対してだが、近代国家の前提の1つである私有財産の不可侵の原則と、社会的共通資本で要求される職業的専門家への管理、運営との間に齟齬が出るのではないのかということに疑問を抱いた。

    私有財産の不可侵が保証されるからこそ、その保証された資本をてこに近代国家は急速な経済成長を遂げることが出来た。その資本を専門家集団に管理、運営させることは果たして本当に希少資源の効率的な分配を果たすことが出来るのだろうか?

    専門家集団の効率的な運営を担保するために適切な監視方法はあるのか…、監視するのは行政か、それとも市民か…(宇沢の主張では行政に監視機能を持たせている)、その監視コストは従来の新古典派が主張するような市場原理に任せるのと較べ膨大にならないかなど様々な疑問が湧いてくる。

    日本の立法、行政府を例にとると、日本の立法府では尊属の地盤を受け継いだ職業的政治家が当選を重ね、一家のファミリービジネスと化し、行政の要職につくケースも多い(これを専門家集団と呼ぶのかは微妙であるがノウハウを継承していけるという点では当てはまるだろう)。

    職業的政治家は長年連れ添っている支援者のために、予算の割り前を少しでも多く獲得することに執心し、必ずしも大局的視点に立った政治が行われているとは言い難い。

    それらの政治家の行動に対しては、本来ならこれも職業的専門家であるマスメディアがその監視を担っているのだろうが、日本のマスメディアの中核であるテレビは規制産業であり、政治家の親族を縁故採用している等の観点から、必ずしも適切な監視機能が働いているとは言えないのが現状なのではないだろうか。

    そのため有権者の政治に対する問題意識は育まれず、現状維持的政策が組まれ、既得権益者に有利な状況を打ち崩すことが出来ない。

    要するに専門家集団の腐敗を防ぐメカニズムを専門家自身の職業的規律に求めようとするのはナンセンスで、市場原理によってもたされる方が有効ではないのかということである。

    ここまでは総論の一部についてのみの稚拙な批評である。各論についても様々な示唆を与えて貰える著作だが、面倒にならなかったらまた書いていきたい。

    ただ、1つ言えるのが、本書において展開される著者の主張を、画餠であるとして冷笑的な態度で拒絶してはいけない、と言うことである。

    その理由のひとつとして、人工知能の飛躍的な進歩など、少し前では想像できなかった科学技術の発展により、一昔前では夢想に過ぎないとしか言えないような主張も、実現可能になるかもしれないという希望が産まれたからである。

    宇沢が持つ正義感は貧困の撲滅や自然との共生など、我々凡人が抱く正義感と決して異なるものでは無い。宇沢の主張を今後の我々の道標として、改良、発展させていくことが我々の使命なのだと言っても言い過ぎではないだろう。

  • 発想はとても好きだが、意見と事実を分けて理解できなかった。もう一回読む。

  • コルビュジェの街作りの話が出ていた。

  • ゆたかな社会の定義として、憲法第25条をアップデートするかのような、「最低限度」ではないという話は非常に面白かったです。

    そして、教育においては、先天的に個性的な特性をもつ子どもたちを一つの教室に集めて同時に教えなければならない点に留意すべきという論に対し、2020年現在ではICTの力により違ったアプローチができるのではないかということ、また医療においては、すべての市民が必要とする医療サービスを自由に無制限に享受することはできないので、医療にたずさわる人的、物的資源が多ければ多いほど望ましいという点で、前述の教育につがって来るのではないかということ。

    これらは特に興味を引いたとともに、自分の中で腑に落ちた部分でもあります。

  • これまで、歩行者のために使われていた街路、あるいは子どもたちの遊び場としても使われていた街路について、舗装して自動車通行が可能になるようにしたとき、舗装、改修のためにかかった費用だけでよいのであろうか。当然、歩行者や子どもたちが、自動車が通るようになって、これまでのように街路を安全に使うことができなくなってしまうことによって発生する被害を考慮にいれなければならないであろう

    なんとなく古き良き昔を振り返っている印象がありまして、自分の肌感覚とはあいませんでした。技術革新は止められない、それをいかに適切に活用するのが、今後の肝ではないかと思います。

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著者プロフィール

中央大学研究開発機構教授
中央大学地球環境研究ユニット(CRUGE)責任者

「2000年 『地球環境政策』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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