戦略的思考とは何か 改版 (中公新書) [Kindle]

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  • 中央公論新社
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感想・レビュー・書評

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  • 読むのに時間はかかったが、昔の新書らしく非常に論理的で、読みにくくなく、知的好奇心をくすぐる本。
    基本、日本が英米とうまくやっているときは、間違いが少ないとき、という論調。
    それが本当かどうかはともかく、少なくとも過去を振り返りそうであったわけなので、この事実は一度日本人は受け止めてみるべきかも。

    リベラリズムというのは国家権力に対して個人の自由を守ることに主眼があり、国際問題を考えるにはあまり役に立たない、という論旨は鋭い。

  • ふだんこういった本は読んでこなかった。歴史にも特段の興味はなかったので、目新しかった。
    昭和50年代の古い本ではあるが、現在の対ロシアの動きなどを理解するにあたり、非常に参考になった。アングロ・サクソンとロシアが極東の力の実体だとあるが、その通り過去も今もロシアもしくはソ連vsUS,EUという図式は変わっていない。
    あとがきにある、軍事戦略に関して学ぶ場がない、というのは間違いない。
    『デモクラシーの社会では、皆が戦略的白痴になるか、誰でもが戦略を知っているかのどちらかの選択しかない』とあり、現在の日本では、完全に前者であることに危機感を覚えるところからスタートするのだろう。
    一つ一つの事実はニュースで聞きかじることはできても、どうしても全体感、どうすべきなのか、についてまで考えが及ばなかったが、防衛費増税には賛成だが、本書をもとに改めて強く賛成の意を表明したい。


    ー以下引用ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    大衆の良識というものは無視できないものがあります。「自分はインテリだから大丈夫だが、他の人はすぐ右傾する」というエリート意識で独善的に情報操作をすると、かえって大局を誤るおそれがあります。
    ソ連の脅威にいちばん深い危惧を抱くのは、敗戦時満州でソ連軍の占領を経験した人々です。しかし日本人の圧倒的多数はアメリカの占領しか経験していないので、どうしても降伏とか占領に対するイメージが甘くなります。
    力関係がわが方に有利なときは先方が下手に出るのでコロコロ喜んで、出兵しない。力関係が逆転して先方が高姿勢に転ずると今度は怒って攻めようとする、これでは情勢判断も戦略もない、驚くべき単純思考です。よくこれで千二百年間やってこられたと思います。国際環境のきびしい国ではとても考えられないことです。
    圧倒的な優勢というのは誰の眼にも明らかに見えるものです。明治十五年、福沢諭吉は、「支那の海軍はいまでも日本の三倍近いが、今後ますます増強して、琉球回復などといって戦争をしかけてきたらどうなるだろう。最近の戦争は勇気でなしに武器で決まる。もし日本が負ければ、清国兵は日本に上陸してどんな乱暴をするかわからない」と書いて国防の急を説いています。
    戦争というものは、ほとんどはどこかの国内の政治的事件を契機として始まっています。
    では、戦争の可能性を局小化するために「戦争を避けるには後進国の内政の安定が大事だ。だから経済援助で平和に貢献する」という現在の日本の考え方は、日清戦争の例からも一理はあります。しかしそれにも限界があることは心得ておく要はありましょう。
    一般的に弱者同盟というものは力の上であまりプラスにならないうえに、強者を「しゃらくさい真似をする」と言って怒らせて、危険が増大するおそれがあります。  強者を刺戟しようとしまいと、どうせ侵略してくるという判断がつけば、それでも少しは意味があるでしょうが、その場合でもパワー・ポリティックスからいって弱者同盟に意味があるのは、第三者たる強者と結ぶ場合です。
    経済的利益がないのにもかかわらず北方に進出するためには何らかの政治的動機が必要ですが、北方に脅威がないことそれ自体が北方に対する征服欲をなくさせる原因ともなりえます。
    その時々のジャーナリスティックなキャッチ・フレーズに惑わされないことです。二極構造などというのは「冷戦的発想だ」とか、「世界はいまは多極化している」などといっても、アングロ・サクソンとロシアが極東の力の実体だというのは百年来のことで、世の中がデタント・ムードになったからといって、そう簡単に実体が変るというものでもありません。
    ファンダメンタリスト(現実と妥協しようとしない原則論者)
    一般的にいって、日英同盟の期間中とか、戦後の日米安保体制下の日本とか、アングロ・サクソンと同盟しているあいだの日本があまり素頓狂なまちがいを犯さないのは、アングロ・サクソン世界のもっている情報がよく入ってくるからだと思っています。いったんこれが切れて三〇年代の日本のようになると、もう世界の情勢がどうなっているか常識的な判断を失って、八紘一宇だとか、わけのわからないことを口走るようになります。
    何故に陸軍は情報を軽視するようになったか。それは戦略を無視したからである。何故に戦略を無視するようになったか。それは……戦略は極秘として記録されない習慣があり、そのために完全な戦略白痴状態となっていたのに気付かなかったためである」。
    たしかに戦略というのは裏の裏まで考えるものなので人に知られては困ることもあります。
    デモクラシーの社会では、皆が戦略的白痴になるか、誰でもが戦略を知っているかのどちらかの選択しかないわけですから、後者しかないでしょう。
    捕虜の待遇にしても、リデル・ハートの戦略論は「騎士道的であることは、敵の抗戦意思を弱めさせる最も効果的な武器である」
    日本はいつアングロ・サクソン路線から離れてしまったかということです。何度も指摘するように、日本はアングロ・サクソンと仲よくしているときはうまくいき、そうでないときは失敗しています。力の関係だけから考えても、アングロ・サクソンは過去四百年間大きな戦争には全部勝っているわけですから、勝った方についていれば得で、負けた方につけば損、これは誰にもわかる話です。
    明治の人は真剣だったと思います。小村意見書にしろ、伊藤意見書にしろ、指導者自ら政策を書き下ろし、指導者が集って議論をするのですから密度の高い政策ができます。いまでは大臣はおろか局長でもこんなことはしません。一人の卓越した判断でなく皆でやるのがそれが日本的なのだ、というのが常識になっていて、社会学者も皆同じことを言います。
    人じゃない、組織だ」ということで、上の人はおみこしに乗ればよい、下は下で上の人のいうまま、というようなことは戦前の日本社会にはなかったことと思います。これはおそらくは戦争中の軍隊の下級幹部教育の影響か、あるいはもっとひろく言って、リースマンの言う大衆社会の出現の結果ではないか
    日露戦争を国民の反対を押し切って妥協で終了させねばならなかった情勢判断と戦略を、政府中枢のごく少数の人だけが知っていて、一般国民はおろか、政府と軍の幹部の大多数も知らされず「戦略的白痴」の状態をつくってしまったことにも責任がありましょう。
    アメリカが片手にモラリズムをふりかざして、片手は国内政治に操られて動く国だということを既定の事実として受け入れて、そのうえで日本の政策をつくらざるをえなかった
    ジョージ・ケナンのDemocracy is peace loving, but fights in anger.(民主社会は平和愛好的だが、戦うときは本当に相手が悪いと思って戦う)
    日本の防衛論争がどうもいつまでたっても結着を見ないことの深い背景には、この日本のデモクラシー不信があります。これは日本国内だけでなく、外国から見ても同じ問題があって、「日本のデモクラシーは本物なのだろうか。すぐ戦前の軍国主義に復活するのではないか」という疑問は、第二次大戦を経験しアンチ・ファシズムの中に育った世代の中には抜き難く残っています。
    こういう世代は、日本人がどうもデモクラシーを防衛する気がないらしいという印象をもって、日本のデモクラシーは本物なのか、どのくらいの試練に堪えられるのか、自由陣営にとって価値観を同じくする信頼すべき同盟国と考えてよいのか、いざという場合は日和見するのではないか、などの疑いをもって、そういう不信感が通商問題などにおける冷い態度にも反映されてくるわけです。
    自分は海をへだてて海軍力をもっているのでひとまず安心ですが、こわいのは大陸の力が一つにまとまってくることなので、つねに大陸の主要敵に対抗する勢力を助けてバランスさせようということです。
    戦争というものは疑心暗鬼の中で起ることも多いのです
    戦争を始めてもどちらが勝つかわからないという状況では、戦争が意図的に起される可能性は小さいと考えてよいでしょう。  ということは、もし、将来米ソの対決があり、全面戦争が起るようなことがあったとしても、それは米ソいずれも予測できなかったし、そういう事態にならないようにコントロールする力の及ばない地域における政治的事件が原因になって起ると考えられます。
    核戦争になれば何もかもおしまいだ」などとなげやりなことを言わずに、核全面戦争でも民族の一部は生き残り、復興する手だては考えておかなければならないのですが、日本の防衛体制がこれだけ遅れている現状では、ものには順序があるということです。  核戦争のための準備といっても、シェルターをつくったり、備蓄を増したり、応急手当てを考えたり、つまりは民間防衛組織や有事立法を完備することです。
    どうすれば戦争にまきこまれないようにできるかという戦略です。安保条約があるかぎり局地戦にまきこまれないと考えてよいのですから、問題は、米ソ対決の大戦争になっても、何とかして、日本周辺だけは睨み合ったままで実際の戦争が起らないか、あるいはもし起っても、できるだけ限定された規模のものにさせることができればよいわけです。  そのために必要なことは、東西対立の接点などの諸地域、北欧、中欧、南欧、中近東、中ソ国境、太平洋岸などの中で、日本の周辺が特別に脆弱な一環にならないように努力することです。
    情勢判断担当者の質というのは、将来の見通しを立てては、それを現実の流れで検証するという作業の長年の経験によって維持できるもので、先の見通しを立てることを避けるようになっては、その質が落ちることは目に見えています。  問題は全部、情勢判断というものの本質に対する誤解から発します。国際情勢は「一寸先は闇だ」という一般の認識が存在していて、情勢判断と先行きの見通しは大いに尊重しつつも、その結果的な誤りは咎め立てをせずに、すぐに修正するという柔軟性があって、はじめて、判断の質が維持され、向上します。

  •  日本の国家戦略を語る場合、日本人は難しい状態にあるときに限って「どうにかなるんじゃないか?」と思っていることが多い。
     いつか神風が吹き、勝利する。それが日本の歴史が教えてくれることだからだ。

     私も学校で歴史を学んだ時、元寇の話で神風が二度吹き日本が助かったという話を聴いて、それはすごいなと思った記憶がある。
     だがその可能性を信じ楽観主義に嵌るようでは馬鹿だ。筆者は中国やロシアと日本の軍事バランスを各国の歴史から抽出し、日本はいつの時代であってもアジア民族主義を持ち出せるような力を握ったことはないと打破する。
     その主な理由こそ戦略の欠如にあるというのが筆者の考えです。これは日本の戦略が弱いということではなく、過去の戦争で培われた情報が残っていないということを指します。日本は戦略的白痴になってしまった。
     だから戦略的思考を持ち直すことが必要だ、というのがこの本のはしりです。正直余りにも広く深く明治以降の歴史が述べられている為、一読では把握しきれなかった。近い内に再読したい一冊。

  • 初版は1983年と、今からほぼ40年前ですが、改版され未だに読み継がれる中公新書の名著と呼んでよい1冊です。「戦略的思考」と書名にありますが、本書が扱うのは国家の安全保障、外交戦略がメインです。本書前半は日清戦争から太平洋戦争までの時代を振り返り、戦後の冷戦構造を扱うのは本書後半からです。現代の国際情勢を扱っているわけではないですが、国と国との駆け引き、地政学的な見方とか、現代の国際情勢を理解したり分析したりするときに役立つ視点や考え方が列挙されており、40年も増刷され続けられているのも納得の内容でした。
    「ソ連、中国という膨張主義の大国が大陸に存在しつつも、朝鮮半島と日本海がバッファーとなっているため、陸続きの欧州ほどに危機感が日本では醸成されなかった」、「帝国主義時代の列強国の考え方は、それぞれの国の利益本位の徹底した利己主義で、それがどの程度表面に出てくるかという程度の問題」、「領土についてのロシアの考え方は、一度でもロシア国旗が掲げられた場所は、決して失ってはならないという原則に基づく」、「防衛の問題というのは一朝有事の事であり、たとえ100年間戦争がなくても、自衛官が毎日訓練に励み、万一の場合に備えて戦略を考えるのは当然」、などなど、今の時代にあてはめても説得力のある理論が次々と展開されています。
    著者は外交官として外交の最前線に身を置いておられただけあって、日本人にありがちな”お人好し”な状況分析は皆無ですし、最近よく目にする極端な右傾化、あるいは左傾化もなく、冷徹な外交の現場を経験した人だからこその説得力だと感じました。
    前半部分は近代史の知識が乏しい私にはちょっと難解でしたが、冷戦以降を扱った後半部分などは今の時代に読んでも古さを感じない内容でした。

  • 40年前の本。戦術で勝っても戦略で負ける。戦略的思考を持たない日本。なぜ戦略が重要かを実際の戦争や当時の状況を用いて解説。後半にいくほど現実的で面白く感じる。日本国民が平均的に戦略的思考を働かさなくても生きてきた歴史があるのだろう。感情論に振り回されたりするのもこれが原因か。振り返れば,自分にも戦略的思考は欠けている。個人レベルでも戦略的に考える練習(実践)をしてみよう。個人レベル,組織レベル,国家レベルでのパワーバランス,その状況は結果的に誰を利するかを吟味する思考の癖をつけてみよう。

  • 私生活が忙しかったので少しずつしか読めず、かなり時間がかかってしまった。本書は1983年に書かれたもので、ソ連とアメリカの二極構造を重要視しており、現在の感覚とは少し状況が変わっているように思える。しかし、現在の日本を取り巻く安全保障環境、国内世論でよくある言説に対する反論は今でも通用する議論である。多極化という用語を使いたくなる昨今であるが、結局根本的には二極構造である考えは納得させられた。

  • 大事なことなので最初に書きます。
    右派・中道・左派問わず日本人の必読書です。

    昭和58年出版の改版でNOWのことではないが、国の名前を読み替えるなどすれば十分今でも通じる内容です。
    著者のプロフィールを見ると、岡崎研究所の所長をしていた(故人)。
    岡崎研究所と聞いて、あ~あの岡崎研究所か。
    Wedgeに良く投稿されているので、何度も読んだことがあります。客観性を重視する所長の精神が引き継がれているようで、客観性のない記述を見た記憶がない。
    著者も草葉のかげで喜んでいるでしょうね。
    まあ、客観的なものから導出される主張に対して、異論・反論はあるだろうけど、それは大いに議論を戦わせれば良い。
    https://seisenudoku.seesaa.net/article/472426135.html

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著者プロフィール

岡崎久彦

1930年(昭和5年)、大連に生まれる。1952年、外交官試験合格と同時に東京大学法学部中退、外務省入省。1955年、ケンブリッジ大学経済学部卒業。1982年より外務省調査企画部長、つづいて初代の情報調査局長。サウジアラビア大使、タイ大使を経て、岡崎研究所所長。2014年10月、逝去。著書に『隣の国で考えたこと』(中央公論社、日本エッセイスト・クラブ賞)、『国家と情報』(文藝春秋、サントリー学芸賞)など多数。

「2019年 『戦略的思考とは何か 改版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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