感染地図 歴史を変えた未知の病原体 (河出文庫) [Kindle]

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  • コッホがコレラ菌を発見する三十年前、「疫学の父」と後に呼ばれたジョン・スノーは、ロンドンを襲った「見えない敵」と闘っていた――。そんな惹句。

    時は1854年。日本では江戸末期、ペリーがやってきて日米和親条約が結ばれ、今のウクライナ戦争でも焦点の一つ、クリミア半島を舞台にロシアがフランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍と戦争のさなか。舞台はヴィクトリア王朝下のイギリス・ロンドンのウエスト・エンドの一角であるソーホー地区だ。それもブロード・ストリートという裏通り。ここで9月の初めにコレラが発生、あっという間に猖獗を極める。その1週間ほど、この町でなぜコレラが流行したのか、その発生源に迫った2人を中心としたドキュメントの形をとる「ブロード・ストリート・ストーリー」。

    メインの登場人物は、後の世に「疫学の始祖」とされる「麻酔医」のジョン・スノーと、貧民街の伝道師のように地区を知り尽くしたセント・ルーカス教会の副牧師ヘンリー・ホワイトヘッドの2人。それに公衆衛生に統計を導入する革新的な事業を進めていた戸籍本署長官のウイリアム・ファー、救貧法と下水道、そして公衆衛生の改革で名を残したが、この物語では「瘴気説」の頑固な主唱者として敵役ともなる公衆衛生局長官のエドウィン・チャドウィックが脇を固める。

    著書の構成は、日付を柱として、当時のロンドンの街の実態や人々の考えを、濃密な背景画や小道具に、社会史や衛生思想史などを繙く形で進行する。
    目次的にいえば章分けは、<8月26日 月曜日 下肥屋> 続いて<9月2日 土曜日 目はくぼみ、唇は濃い青色に>、<9月3日 日曜日 探偵、現る>、<9月4日 月曜日 肥大化する怪物都市>、<9月5日 火曜日 あらゆる「におい」は病気である>、<9月6日 水曜日 証拠固め>、<9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ>、<その後~現在 感染地図>、<エピローグ> となっている。

    まず第1日の<下肥屋>の書き出しは、こんな風に始る。<1854年の8月、ロンドンはごみ漁りたちの街だった。骨拾い、ぼろ集め、犬糞集め、どぶさらい、泥ひばり、下水狩り、燃えがら屋、下肥屋、脂かす乞い、川底さらい、河岸受け……この業種の呼び名を並べれば、まるで珍獣動物園の目録だ。みなロンドンの最下層階級で、少なくとも十万人が従事していた。この人数の多さは尋常ではなく、彼らだけで独立して市を作ったならイギリスで五番目に大きな都市になっただろう>。

    ディケンズや時の批評家で「ロンドンの労働と貧民」を著したヘンリー・メイヒュの記述をなぞりながら、時代の空気をも全体のドキュメント風の記述に膨らみを持たせる。

    本題は、その1章目の終わり数行に示される。<八月の28日、すべてが変わった。街の住民たちが暑い夏の夜に最後の一眠りをむさぼろうとしていた午前6時ごろ、ルイス家の赤ん坊は嘔吐と、鼻を突くようなにおいのする水っぽい緑色の下利便を出し始めた。母親のサラは数区画先のバーナーズ・ストリートで開業医をしていたウイリアム・ロジャーズに往診を頼んだ。医者が来るのを待ったいるあいだ、サラは汚れたおしめを生ぬるいバケツの水につけて洗った。赤ん坊がほんの数分眠ったときを見計らって、サラ・ルイスはブロード・ストリート40番地の地下室に行き、家の正面側にあった汚水溜めにバケツの水をあけた。/これがはじまりだった>。探偵物語の「事件の発生」だ。

    第2章には、メインの登場人物、ヘンリー・ホワイトヘッドという副牧師が、教区の中をいつものように、この町の悪臭のなか歩く日々の姿が語られる。ブロード・ストリートのライオン醸造所では、仕事の前にビールをすすり、そしてブロード・ストリートの清涼だといわれる井戸に水を汲みに来る人たち。そして、その水の行き先まで、今の人たちは知る。ミスターGのお腹がグルグル言い始め、次々にコレラの前兆症状の人たち。この章で筆者は、細菌というものの性格、これまでにインド周辺でしか発生していなかったコレラが世界に広がっていく様の知識を教えてくれる。そして、<この金曜日の午後1時、ルイス家の赤ん坊が静かに苦しんでいるころ、おとなりのミスターGの心臓は止まった。コレラの症状が出てから24時間しかたっていなかった。それから数時間以内にソーホーの住人がさらに十数人死んだ>。

    第3章の「9月3日 探偵、現る」というに章に登場するのが、41歳で無口な禁欲主義者、ジョン・スノー。メインの登場人物だ。ここでスノーという人物と、コレラへの関心の端緒が記される.
    その経歴。ヨークシャーの労働者の長男として生まれる。野心をもって外科医の徒弟となり、1831年にイギリスを襲ったコレラ禍を近隣の炭坑内での集団感染の生存者への治療に当たる。その経験からぼんやりと<コレラの流行は自然に広まるものではなく、極貧労働者が強いられている社会的状況から生まれるのではないか>という考えが浮かぶ。ロンドン大学で学位を取り、難関の医学博士の試験に合格する。そして麻酔法を確立する。それ以前の外科手術は、麻酔もなしで患者の苦痛の中で行われていたのにエーテルがようやく用いられる時代に、どれほどの温度で管理するか、を「エーテル蒸気の強度算出法」としてまとめ、あまつさえ患者にエーテルを嗅がせる量を調節できる吸入器を工夫して器具製作することまでした。ヴィクトリア女王の出産時の麻酔を担当、その道でも満足な栄達だったが、それにも満足しなかった。
    コレラへの関心は、1848年にハンブルクから英国へ入って2年後に収束するまでに5万人の命が奪われた大流行だった。コレラ菌はその年の9月、数日前にハンブルクを出港したドイツの汽船エルベ号がロンドンに入港し、ヨハン・ハーノルドという乗組員がホースリーダウンのある貸家に泊まり、9月22日、彼はコレラに倒れ、数時間後に死んだ。数日後、ブレンキンソップという男が同じ部屋に泊まり、9月30日に病気になった。コレラは1週間以内に周囲一帯に広がり、さらにはイギリス国内に広がった。
    この大流行について当時、「瘴気説」で説明されていた。当然、まだ細菌やウイルスと言う概念はなく「悪い空気が病気の元」と言う説が主流だった。しかし、スノーは疑問をもつ。コレラが同じ部屋から1週間の間隔を開けて出たというなら、宿泊者を害するような悪い空気が1週間後もまだその部屋にたまっていたことになるし、一方で病気が蔓延している都市からやってきた人間が到着したその日に、たまたまその部屋が人間を殺すほど強い毒気で満たされるというのは、信じがたい、と。この時、スノーは調査を開始している。コレラ犠牲者の米のとぎ汁状便を調べた化学者に面会し、水道・下水道の担当者に情報を要請し……。49年半ばに、自説を公表する。「コレラは被害者が摂取した未確認媒体によって引き起こされる病気であり、患者の排泄物に直接接触するか、それ以上に考えられるのは、排泄物で汚染された飲料水を通じて伝染する」というものだった。
    重要だったのは、ロンドンの戸籍本署長官ウィリアム・ファーがまとめて評にしたコレラの死者と、彼の予測したパターンが重なったことだった。しかし、多くの人が懐疑的だった。これに対して「ガゼット」誌は、スノーの仮説を確かめるための提案をした。<この件で「決定的実験」となるのは、これまでコレラが発生していない離れた地区に疑わしき水を運び、その水を使った人が病気になり、使わなかった人が免れるかどうかを調べることであろう>。「9月3日」には、スノーは気づいていなかったが、この「決定的実験」が、ブロード・ストリートから数マイル離れた緑豊かな街で進行していた。週の前半にソーホーに住む息子たちから届けられたブロード・ストリートの井戸水を飲んだスザンヌ・イリーが病に倒れていた。
    スノーはブロード・ストリートの井戸水を検査し、副牧師ホワイトヘッドもそれとは別に教区内を歩き回り、回復する患者を見、一方で50人を超す死者を知る。ホワイトヘッドは井戸水にブランデーを垂らして飲んで寝た。

    第4章の<9月4日 肥大化する怪物都市>では、ホワイトヘッドがゴーストタウンと化した教区内で、最近になって築かれた新しい下水道のせいではないか、と噂しているのを聞く。この章では、ウィリアム・ファーが紹介されている。スノーが注目した死亡週報をまとめて発行していた。シュロップシャーの貧しい労働者の息子として、スノーより5年早く生まれ、1830年代を医者修行に費やしたが、その後の10年は公衆衛生に統計を導入するという革新的な事業に取り組んだ。1838年に新設された戸籍本署に、最初の妻を19世紀のもうひとつの感染症、結核で亡くした数か月後に配属された。ファーは当初、人口統計の基本的な傾向を知るための出生と死亡、婚姻の数をイングランドとウエールズで調べる仕事を命じられた。しかし彼はやがて、もっと複雑な傾向を把握できるよう統計を改良した。17世紀のペスト禍時代に死者の名前と教区を書記官が記録した「死者勘定」を研究し、この種の記録は他の可変要素を加えることでもっと化学的に役立つものになると気づいた。スノーの研究には関心は示しながらも、なお半信半疑だった。しかし、彼はスノーに決定的なカギを与えることになる。<死亡週報の表に、新しい欄を付け加えた。コレラの犠牲者の年齢と性別と居住地高度に加えて、当人が飲料水をどこで得ていたかを記録する欄だ>。
    この章では、当時の街の人がどのような水を得ていたか、アルコールの消毒効果などを説き、民間の水道会社が給水をしていること、その取水点の違いなども説明。スノーが、水道会社別の患者の発生の相関などを模索したこと、そして実際にはそれができなかったことなどを説明している。死者は最も多くなっていた。

    第5章は<9月5日 火曜日 あらゆる「におい」は病気である>。ホワイトヘッドは、死者は増えているが、回復する人たちに希望を見出している。そして大量にストリートの井戸水を大量に飲んで驚異的に回復する姿を記憶に留める。この章では、章の柱の文字通り、瘴気説をも説明している。昼前に、政府の公衆衛生局メンバーの小集団がゴールデン・スクエアに視察に来て、主要紙に「民衆の守護者たちは精力的に活動しており、そのおかげであらゆる成果が現れている」と自画自賛の記事を送った。事態は沈静化しつつあるようにみえた。彼らがやったのは唯一、街路にカルキを撒いた。漂白剤のにおいが都会ならではの廃棄物のにおいを覆い隠した。このカルキ作戦は、瘴気説を唱えたエドウィン・チャドウィックが生涯の敵と戦うために展開したものだった、と。
    チャドウィックは、1832年に救貧法委員会のメンバーに任命されたのを皮切りに、1842年には労働者階級を対象とした画期的な衛生調査をこない、1840年代後半には下水道行政の長官として過ごし、ついに公衆衛生局長の地位にまでのぼりつめ、現代の私たちが当然と思っている行政サービスの基礎を、すべてとまでは言わないにしてもかなり築くのに貢献した。自由市場の中で置き去りにされてしまう社会問題を中央政府主導で解決すべきこと、公衆衛生問題はインフラ整備や防止策の面で政府の大がかりな投資を必要とすることなどだ。<チャドウィックの仕事人生はよきにつけ悪しきにつけ、今日の「大きな政府」の概念の構築だったとみてよいだろう>。ただ、彼が前面に打ち出した考えは間違いだった。「あらゆる臭いは病気である。臭いが強烈であれば、あるほど急性の重い病を引き起こす。そこまでいかずとも士気を低下させ、活動を停滞させるのであるならば、やはり、あらゆる臭いは病気である」と。そして彼の考え方と同じ有名人は大勢いた。かのフローレンス・ナイチンゲールさえ。
    スノーはこの日、1日をかけてパターンを探した。ドアをノックしてまわり、感染の広がり方や被害者の逸話の事例を集めた。そしてファーから集計した数字を見せてもらった。先週の木曜日から土曜日にかけてソーホーでは83人の死者が報告されていた。ブロードストリートに戻ると、井戸水のポンプが据えてある所に立ち、リストの住所と人気のない通りに交互に目をやり、住人が水を求めてやってくる道順を思い浮かべていた。

    第6章。<9月6日 水曜日 証拠固め>。この日、スノーは一つの仮説を立てた。ブロードストリートの井戸を中心に、死者の出ているところは分かる。井戸の近くに住んでいるのに生き残っている人は、何らかの理由で毒された井戸の水を飲まなかったのではないか。離れている場所で死んだ患者が、この井戸の水を飲んでいたのではないか。
    そして夜までに、スノーは井戸水犯人説の統計的証拠を固めていた。ファーのリストにあった83人の死者のうち73人は、最寄りの井戸から近く、うち61人は水を常飲していた。井戸の近くに住みながら常飲していない死者は6人で、残り6人は関係者が全員死亡して分からなかった。最寄りでない場所に住んでいなかった10人のうち、8人は井戸水に関係があった。ファーのリストに出ていない犠牲者情報も手に入れた。井戸水を混ぜたシャーベットを売った店の常連客9人が疫病発生後に死んだ。ライオン醸造所ではビールを常飲、救貧院は水道の水を飲んでいたので犠牲者はなし。そして離れた場所で、問題の水をわざわざ取り寄せて飲んだ人が犠牲になったことも。

    第7章は<9月8日 金曜日 井戸を閉鎖せよ>。木曜日の夜、セント・ジェームス教区の役員会の緊急としては、ブロードストリートの疫病は数日後に鎮火し、最後の犠牲者が死ぬとともに患者たちが回復した。それ以上に、人間とコレラ菌の戦いを決定的に変える瞬間だった。観察し、推論集会が開かれた。スノーが、この井でいなかったことを説明、役員会は簡単な話し合いのあと投票でブロードストリートの戸の近くに住んでいる人の生存率が哀しいほどに低いこと。生き残っている人は飲ん井戸を閉鎖することを決めた。ポンプの柄が外された。短期的な成果調査官たちは家を一軒一軒まわり報告書を出すよう求められた。しかし調査項目は固執していた瘴気説に完全に沿って作成されていた。誤ったパラダイムが優勢な中で真実を見出すのは困難し、確認するという系統立った調査と研究に基づいてなされた「介入」だった。
    同じ日、スノーの理性に耳を貸さなかった公衆衛生局長はコレラ調査委員会を作り、ブロードストリートの大疫病の調査を命じた。
    であることを示すものになった。

    ただ、ポンプの柄が外されても、皆がスノーの説に得心した訳ではなかった。教区の役員も、そしてホワイトヘッドも反発するものがあった。ブロードストリートの井戸水は、それまで清く、おいしいと他所からも汲みにくるほどだったし、井戸水にコレラの元があるとの説には納得できていなかった。ホワイトヘッドは、その後、教区から避難した住民たちの追跡調査なども行い、自身の調査報告を公表したりした。彼の神への尊崇の気持ちも込められた報告書だった。
    が、ある日、ホワイトヘッドは戸籍本署のファイルの1行を見つける。「ブロードストリート40番地、9月2日、生後5か月の女児、下痢が4日間つづいたあと、力尽きて死ぬ」。ルイス家の赤ん坊の哀しい運命はよく知っていた。大人の多くは数時間のうちに死んでいたから、赤ん坊が何日ももちこたえるなど考えてもみなかった。彼女が4日間病気だったとすると、それは疫病発生の1日前だ。実際にルイス家で聴くと、死ぬ5日前から苦しんでいた。赤ん坊の汚れたおしめをバケツの水で洗い、その水は裏庭に捨てたこともあれば、家の正面側の地下にある汚水溜めに捨てたこともあった、ことが分かった。これで鎖の環が繋がった。スノーの予想したシナリオ通りだ。
    教区役員会をすぐに招集、ブロードストリートの井戸をもう一度調べることになった。今度は汚水溜めも調べることにした。40番地の排水管は下水道に繋がっていたが、設計にさまざまな欠陥が見つかり実際には下水の流れを堰き止めるような構造になっていた。汚水溜めの周囲はレンガで囲まれていたが、それが腐食していてボロボロになっていた。そのレンガ壁の外側から2フィート8インチ下に、ブロードストリートの井戸があった。
    教区役員会は「極端に死亡率の高かった地区の住人が汚染されたブロードストリートの井戸水を飲んでいたという結論に達した」との報告書を出した。


    そして第7章<その後~現在 感染地図>。のちにスノーを「疫学の父」たらしめる感染地図の作成。1854年の初秋ごろ、12月の疫学協会の会合で発表する地図で、コレラの死者をあらわす印を太い黒線にし、死者が多く出た家を地図上でクッキリと浮き上がらせ、基本的な街路のレイアウトと13か所の公共井戸の記号を書き込んだ。この地図の視覚効果は絶大だった。ブロードストリートの井戸の周囲には、ひときわ黒い線が密集して高層ビルのように林立した。ドットマップだけであってもポンプの目立つアイコンがなければ、疫病の分布域は判然としなかったが、この地図はいきなり語るべきものを明白にした。しかし、ドットマップは、それ以前のコレラ流行時にも作成されていた。スノーの画期的なのは、コレラの伝播方法について科学的に妥当な理論を、最新の情報デザインで説明したことだ。重要なのは、地図作成の”技法”ではなく、地図を使って引き出した”科学”のほうだ。スノーは、この疫学協会で発表した最初の地図のあと、スノーとホワイトヘッドが足を棒にして集めた情報を図式的にあらわす方法、のちにポロノイ図と呼ばれる手法を利用し、ポンプの点までの距離を、いわゆるユークリッド幾何学の距離ではなく、徒歩での距離を算出の基準にした。空間だけでなく時間もあらわした地図をつくった。この第2版の地図でコレラ死者の分布域の形と、ブロードストリートの井戸への近接域の形がみごとに一致した。もしコレラが井戸から瘴気的に放散して広がるのなら、完全な正円にならないまでも、井戸への徒歩での近接性という街路レベルでのパターンには合致しない。空気なら、街路のレイアウトの奇抜さの影響を受けないし、他の井戸の場所の影響も受けないはずだ。第2版では、鳥観図でありながら、路上の視線が反映されていた。

    このようにして、スノーの汚染図は出来上がったが、それですぐに瘴気説を説得できたわけではなかったが、時代が次第にスノーの正しさを証明していく。

    エピローグで筆者は、都市がますます稠密化していくなかでの危険から、生物兵器の危険などにも話を敷衍していく。ともかく熱量の詰まった一冊だった。

  • 19世紀ロンドンで発生したコレラ流行について、その原因の特定と解決まで2人の人物の事蹟を時系列順に追った内容を中心とした本。本全体の半分強がそのくらいで、残りは前半の内容を踏まえ、それを教訓として現代の都市はどう発展していくのか、都市文化の変化や都市の脅威、またそれへの対処について著者の考えを記す。昨今のCovid-19の問題を念頭に置くと、非常に妥当な指摘であると思われるが、どうも全体が乖離しているように思われてならない。19世紀ロンドンの事象をもう少し掘り下げられないのか?あるいは現代都市文化を考えるのならばロンドンのコレラ以外の事例を用いることはできないのか?少しどっちつかずになったような読後感があった。

  • ふむ

  • この本、面白かった。
    まだコッホがコレラ菌を発見する以前の時代。データに基づいてロンドンを襲った見えない敵、コレラの感染源を突き止めた外科医ジョン・スノーを追ったドキュメンタリー。

    状況証拠によって次第に感染のメカニズムを明らかにしていく過程が、刑事の犯罪捜査のようで知的興奮を覚える。社会が誤った判断に陥ってしまう原因や都市機能についての論考等、テーマは疫学から社会学にまで広がる。

    他でもない「今」、読むべき本と言える。

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著者プロフィール

「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」「ディスカヴァー」など多数の雑誌に寄稿する人気コラムニスト。サイエンス、ポップカルチャーなど専門は多岐にわたる。『創発』『マインド・ワイド・オープン』など著書多数。

「2017年 『感染地図 歴史を変えた未知の病原体』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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