手の倫理 (講談社選書メチエ) [Kindle]

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  • コロナ明け、withコロナと呼ばれる今こそ読みたい本。
    触れる/触る を極度に控えた(?断絶したと言ってもいいかも。)あの頃から徐々に戻ってきた 触れる/触る。
    考えてもみなかったことが開かれる良本。

  • 他者に触る/触れることに関する倫理的問題の提起。

    1章体育教師の言葉
    「体育の授業が根本のところで目指すべきものって、他人の体に、失礼ではない仕方でふれる技術を身につけさせることだと思うんです」
    膝を打つ(体育の授業がかは分からないが)。
    触れることは相手に触れられる感覚を強制することになる。
    相手との距離が0になり、ものの形を瞬時にはとらえられない触覚は、
    歴史的にも感覚の中では低級と考えられてきた。
    低級であり原始的、それゆえ、さわることは非道徳的になりやすい。
    そもそも距離0というのは正しくない。
    接触は相手の内側に入り込む(ヘルダー)。
    相手にさわらせる/ふれさせるのはコミュニケーションの主導権を
    相手にゆだねることになる。

    さわるというのは伝達的なコミュニケーション。
    ふれるというのは生成的なコミュニケーション。

    ブラインドの人がランニングするときは、
    伴走者と一緒に、ロープを握って走る。
    ロープから伝わってくる感触は、生々しく、
    初心者は怖くなってしまう。
    ただこのように原始的で深い感覚だからこそ、
    伴走中の共鳴のような感覚が発生しうる。
    (共鳴したときはブラインドの人も、
    伴走者が言葉や明示的な触覚で知らせなくても、
    カーブが「見えている」ように自然に曲がれるようになる。)



  • 第1章 倫理:ほんとうの教育
    /フレーベルの恩物
    /「倫理一般」は存在しない 他

    第2章 触覚:低級感覚としての触覚
    /内部的にはいりこむ触覚 他

    第3章 信頼:安心と信頼は違う
    /「ふれられる」とは主導権を手渡すこと 他

    第4章 コミュニケーション:記号的メディア
    /物理的メディア
    /伝達モード
    /生成モード 他

    第5章 共鳴:遊びから生まれる「共鳴」
    /「伝える」ではなく「伝わっていく」 他

    第6章 不埒な手:介助とセックス
    /不道徳だからこそ倫理的でありうる 他

  • 触覚は、不確実性の原点。
    想定外のフレームを引き起こし、我々を惑わし、伝えたくないことを伝えてしまう。
    思った通りにはいかない、つまり不確実であるからこそ、何か嫌なことが起こるかもしれないという緊張感を帯びる。
    その緊張感を背負いながら、触覚的にコミュニケーションをすることは、その時々の状況にて考え続けること、倫理的であり続けることを要請する。
    倫理的であること、つまりその人の経験から出てくる思考を"その人らしさ"と据えよう。

    我々は科学的に、ゼロイチ的に、伝達的に、物事をとらえるように成長してきた。
    だが、その点においてはある種道徳的、規範的な行動であり続けることで、"その人らしさ"を棄却してきたように思う。
    VUCA(不確実な時代)というが、もともと根源的な触覚的なコミュニケーションにおいてはずっと不確実であり続けている。
    距離ゼロで、対称性をもつ、認識に時間がかかってしまう持続的な感覚である触覚から我々は始めなければいけない。

    だが、その触れ合うコミュニケーションも関わり始めは主体客体の関係のもとにある。
    生成し始める点においては、主体と客体とが明らかに分かれている。
    そこから持続的な関係性をもつことで次第に生成的な、言わずともお互いがわかるようなコミュニケーションが生成される。
    つまり、まずはじめはある種の強制的、暴力的なかかわりが求められる。
    そのような強いコミュニケーションも不要ということではないということは意識しておきたい。

    この本自体が、著者のばんばんクラブでの体験や西島さんを招聘した講義から立ち上がっていることが
    まさにこの本の言うことを体現しているように思う。

  • 突飛な結論を必ずしも求めていたわけではないのですが、言語とかのレベルで話を展開されていたので知覚の話では気になる点がいくつか。個人的には全体的にふわふわしました。
    例えばスクラムの話において、得られている感覚は触れている部分の触覚以上の感覚、足や体幹の深部覚や圧覚、痛覚などによる情報を統合したものであり、非視覚、非言語の大きな統合された情報であると感じたりなど。

    時間が経ってまた同じテーマで本が出たら、ぜったい読むと思います。
    信頼をしすぎない、裏切られてもいいというコミュニケーションに慣れていると、大事な存在を持ちづらくなる(自分も代替可能な存在になってしまうという恐れからか?)というのはとても興味深かったです。
    道徳と倫理の話を出す上で出てきた子供からの問いのエピソードは、その頃論理よりも子供のなかの大きな他者と筆者の行動に矛盾を感じたと思うと、この小さい問いに答えることは、避けてはいけない難題なのだなと身の引き締まる思いがしました。

  • 伊藤亜紗さんの本を読むのは、2冊目。

    https://bc-liber.com/blogs/03dd1dbdb6d9
    読書ログ「目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)」

    こば
    09/01 22:04
    ブログ内容
    まとめ
    前提の話:倫理・道徳・多様性
    距離のなさ
    対称性
    持続性:時間がかかる
    触覚の不埒さ
    感想


    まとめ
    触覚には3つの特徴がある。
    ・ゼロ距離でないと知覚できないが、対象の内部(マイナス距離)をも知覚しうる。
    ・ふれる側とふれられる側とで不均衡があり、特にふれられる側は信頼や安心なしにはリスクを感じる。
    ・時間がかかる物理的メディアであり、伝達モードの要素と生成モードの要素がある。

    また、解釈のリソースとしての身体が一つであることから、触覚を介して色んな経験が混同されうる。道徳的・画一的でない、個人の中の多様性に向き合う倫理が求められる。


    前提の話:倫理・道徳・多様性
    ■倫理と道徳
    道徳:状況によらない正しさを示す べき論
    例:嘘をつく「べき」ではない

    倫理:具体的な状況で人がどう振る舞うか べき論+できるかどうか
    例:嘘をつく「べき」ではないが、真実を伝えると傷つけることになるから、私には「でき」ない

    ■多様性
    世の中で言われる「多様性」とは、「人と人のあいだにある多様性」のことである。
    多様性の尊重自体は重要だが、そこには注意すべき点もある。

    多様性は不干渉と表裏一体になっており、そこから分断まではほんの一歩なのです。 42p

    多様性という言葉に安住することは、それ自体はまったく倫理的なふるまいではない。そうではなく、いかにして異なる考え方をつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していくか、そこにこそ倫理があると言うのです。 43p

    また、多様性の名の下に、ある人を「障害者」「性的マイノリティ」「外国人」などとラベリングすることは、過度の画一化にもつながりうる。

    つまり、「人と人のあいだにある多様性」だけではなく、「一人の人の中にある多様性」にも目を向ける必要がある。
    「一人の人の中にある多様性」すべてにさわる/ふれることはできないが、もう少しその技術を見につけてもいいかもしれない。


    ここから、触覚の3つの特徴についての話が展開される。
    ■距離のなさ
    ■対称性
    ■持続性:時間がかかる



    距離のなさ
    視覚は距離をとって知覚可能だが、触覚はゼロ距離でないと知覚できない。

    視覚=対象を「横に並んでいるもの」(nebeneinander) として捉える感覚
    聴覚=対象を「時間的に前後するもの」(nacheinander) として捉える感覚
    触覚=対象に「内部的にはいりこむもの」(ineinander) として捉える感覚 64p
    例えば子供を抱きしめているとき。子供が腕の中で安心して身を任せているのか、外に出ようともがいているのか、そうした子供の内部のエネルギーは触覚を介して伝わる。
    つまり、単純に表面的な情報を知覚するだけでなく、対象の内部(マイナス距離)をも知覚することが触覚の特徴である。

    *その情報は、体との接触が間接的であればあるほど、表面の知覚にまどわされずに、純粋に内にはいりこんでいける可能性がある。
    *また、それにより得られる情報は、触り方により異なる。



    対称性
    私が私にふれるときは、私は私によってふれられてもいる。この触覚に特有の主体と客体の入れ替え可能性を、本論では触覚の「対称性」と呼びたい 56p

    ただし人が人にふれる場合は、どちらが主体でどちらが客体になるのか、その関係は必ずしも対等ではなく、ふれられる側が不安を感じることもある。これは「信頼」の問題である。

    ■信頼と安心

    安心とは、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を意識しないこと、
    信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということ 87p
    例:
    子供が外に出たら交通事故にあうかもしれないから、外出させない → 安心を得る
    そういう可能性もあるが、「可愛い子には旅をさせよ」と思い送り出す → 信頼する

    ■ふれる側と、ふれられる側の不確実性と信頼
    ふれる側は、ふれ方を決める。接触のデザインに関して主導権を握る。
    そして、双方とも、不確実性を抱えている。

    ふれる側が抱える不確実性は、ふれたことによる相手のリアクションが読めないという不確実性です。
    (中略)
    ふれられる側の不確実性とは、ふれようとしている相手のアクションが読めないという不確実性です。 94p
    この不確実性を乗り越えるには信頼が必要であり、接触には信頼が前提となる。

    ■ふれる側と、ふれられる側の不均衡
    ふれる側は、ふれられる側から拒絶されたりするリスクを抱えている。
    ふれられる側は、ふれる側から暴力を振るわれるリスクを抱えている。
    つまり、基本的に、ふれられる側の方がより大きいリスクを抱えている。

    ふれられる側が、リスクを乗り越えるには信頼が必要で、その信頼が積み重なると、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性が頭に浮かばない状態=「安心」となる。




    持続性:時間がかかる
    時間がかかることで、触覚的なコミュニケーションが行われうる

    ■コミュニケーションで用いられるメディア(手段)

    (106p)

    〇記号的メディア
    ・その手段を使う前に先立って、その意味が決められている =コード化
    ・文字や単語など小さな単位に分割可能 =不連続的、デジタル
    ・接触を伴わない = 非接触

    〇物理的メディア 例:手取り足取りテニスのスイングを教える
    ・さわり方や関係性によって、「暴力的」「丁寧」「セクハラ」「魅力的」など意味が変わる =非コード化
    ・連続的な接触の中でコミュニケーションがなされるので分割しにくい =連続的、アナログ
    ・接触を伴い、参加者が同じ時間空間を共有している = 接触・同期

    ■コミュニケーションのモード(態度、調子)

    (113p)

    〇伝達モード 例:コンビニでレジに買いたい物を出す
    ・「これを買いたい」というメッセージが客(=発信者)から店員に伝えられる
    ・そのメッセージは一方向的
    ・客と店員という役割分担は明瞭

    〇生成モード 例:日常会話
    ・話題は次々移り変わり、そのやり取りの中でメッセージが生まれていく
    ・双方向的なやり取りで、役割分担は不明瞭


    ■さわるは伝達モード、ふれるは生成モード
    (121p)

    (124p)

    障害に関わる場面では、健常者の側に正解があり、それを障害のある人に伝える、となりがちである。もちろん一方向的なやり取りが必要な場面はあるが、対等な関係を目指すのであればできるだけ双方向的なやり取りが望ましい。
    著者の問題意識は、スローガン的に言えば「さわるからふれるへ」「伝達から生成へ」。

    ■「ふれる」の極限としての、「さわる」
    一方で、さわるが有効な場面がある。

    さわる側からさわられる側に伝達する場面:
    車道に飛び出そうとする幼児を慌てて止めようとするとき、「そちらに行ってはいけない」というメッセージを伝えている。

    さわる側が、さわられる側の伝達を受け取ろうとする場面:
    死にゆく人にさわるとき、その肉体に残された命を虚心坦懐に読み取ろうとしている。



    「ふれる」を突き詰めていくと、その果てには「さわる」が、つまり「ふれあう」ことなど不可能な存在として相手が立ち現れてくる次元がある。誠実であろうとすればするほど、他者に対する態度は非人間的な「さわる」に接近していきます。 134p
    これは重要なメッセージな気がしているが、いまいち消化しきれていない。他者の中の他者性というか、自分が認知すらできない不可侵の領域が他者の中にある、そのことを自覚せざるを得ないということなのだろうか。


    触覚の不埒さ
    第5章で、「介助者として仕事をしている男性が、女性とセックスしようとしたときに、瞬間的に「介助に似ている」と思ってしまい、やる気が失せてしまった」という話が紹介される。

    現実の「解釈のリソースとしての身体」が、マテリアル面で共通していることが、わたしの経験を混乱させたのだと言える。身体というリソースが介助とセックスで共通している、だからこその「混同」なのだとすれば、冒頭で述べたこと(セックスの最中に介助を連想する) は当然、その表裏一体の状況なのだ、ということになる。 174p
    これは触覚がゼロ距離であるが故の、混同である。

    「セックス時に介助の仕事を思い出すべきではない」という道徳的規範を、触覚はゆさぶる。その代わりに「思い出してしまったとしたら、どうすればよいのか」という倫理が立ち現れる。道徳的な画一的な私以外の、自分の中の多様性が出現する。

    触覚は道徳的ではないかもしれない。でもそれは確かに、いやだからこそ、倫理的でありうるのです。 194p


    ー------------------------------------

    感想

    医師は、日常的に患者さんにふれる/さわる。

    ・特に比較的若い女性にふれる/さわる場合は、できるだけ配慮するようにしているが、それでも相手の中で性的なものとして解釈されたり、嫌な経験をフラッシュバックさせる可能性を考慮しておく必要がありそうだ、と改めて思った。

    ・本書の中では触覚の「Healing」効果については記載がなかった。特に高齢の方で「初めて聴診してもらいました」「初めて診察してもらいました」などと感動されるケースはそんなに珍しくない。

    ・上記ブログにも書いたが、僕の中の仮説として、「触覚は人間の最も原始的で最も重要な感覚なのでは」というものがある。(*医学用語的には、正確には「体性感覚」のことを想定しています)
    人間は他の五感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚)がなくても何とか生きていけるが、触覚なしだと(少なくとも乳児のうちは)生きていけない。生存に直結するからこそ、触覚は他の五感以上に情動面に影響するのでは・・・と思った。

  • 【オンライン読書会開催!】
    読書会コミュニティ「猫町倶楽部」の課題作品です

    ■2022年8月28日(日)19:00 〜 20:50
    https://nekomachi-club.com/events/69ed721427f5

  • 急に触れられてびっくりして暴れたら、「暴力行為あり」と認識される構造には、触れられる側への想像力が欠如しているからかもしれない。
    入浴介助に性を介在させないという前提は難しい。同棲でも異性でもそこはなかったことにせず、認めた上での関わりが必要。
    ふれて心地良い、さわられて気持ち悪い。
    触覚には「距離マイナス」多分に性愛の意味・感覚が介在する。敏感だからこそ触覚に倫理が求められる。

  • 【感想】
    ・「生成」するコミュニケーション、人間関係の構築をしてみたい。対話・信頼。
    ・自分は人間関係に対するリスクを極度に恐れているということが分かった。
    ・目の前の人には、自分が見えていない側面がある、と考える姿勢が大事。

    【まとめ】
    触覚を通じた人間関係の本質は、自己と他者との融和にある。触覚の特徴は3つ。

    ①距離がマイナス
    触れるとは、距離ゼロよりも深く、相手の内なる意志を感じることができる行為。

    ②持続性
    触れるとは、時間的長さが必要な行為であり、それはつまりコミュニケーションである。

    ③相互性
    触れるとは、同時に触れられることである。

    ①〜③全体を通じて、自己と他者は、お互いの内なる意志に触れ合いつつコミュニケーションを取ることで、時に共鳴と呼べるような融和・つながりを感じることがある。

    なお、触れるの前提には信頼がある。他者には不確実性がある。だからこそ、それを超えるには信頼が必要であり、触れる際には倫理が必要となる。

  •  Audibleでランニング中に視聴。文体がですます調で、ナレーターも落ち着いた口調の方なので印象としてすごくソフトな感じ。本書の内容とうまくシンクロしており、走りながらでもすんなり内容が頭に染み込んでくる。

     僕にとって著者の本は「どもる体」に続いて2冊目だが、本作も同様に著者独自の問題提起に介護やケアの現場での著者の実地体験による裏打ちを加えた実証性高い内容となっており、説得力がある。やや観念的な言説に傾きがちのきらいはあるものの、倫理学、哲学、美学、コミュニケーション理論などの幅広い分野から事例が導入することにより自説に対する多面的な検証がなされており、二元論的な語りにありがちな頼りなさや曖昧さの払拭が図られている。

     無論、著者が「触覚」に多くのものを含め過ぎている、との批判はあろう。例えば視覚等の他の感覚との比較で挙げられる触覚の特徴のうち、「距離マイナス」については明らかに事前知識や主体−対象間の関係などの触覚以外からのコンテクスト情報が混入していると思われるし、「生成」についても確かに瞬間的・双方向的・同時的な情報交換である触覚に典型的ではあるものの、他の感覚に全く見られない特徴であるとまでは言えないだろう。

     しかし、触覚以外の諸感覚に比べ貶価的な扱いを受けてきた触覚に、新たな可能性の光を当てたという意味では本書は画期と言えるだろう。カント流の定言命法的・画一的な「道徳」に対し、より現場に即した柔軟で価値創造的な「倫理」が立ち現れる場として、他者への接触は確かに揺るがせにできない意味を持っている。また、終章のフレーム問題なども(これも他の諸感覚に該当しないわけではないものの)生々しさを備えた触覚ならではの錯覚であり、今後例えばAIによる道徳的判断を考える上でこれまでとは異なる角度からフォーカスを当てるものだと言えるだろう。

     最後に、本書だけではないがAudibleに苦言を。脚注を実際に音読しないのであれば、文中でいちいち「ちゅう・にじゅういち」などと読み上げないでほしい。無意味な上に気が散って仕方がない。読む方も大変だろう。

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著者プロフィール

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『どもる体』『記憶する体』『手の倫理』など多数。

「2022年 『ぼけと利他』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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