遺伝子‐親密なる人類史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF) [Kindle]

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  • 「遺伝子」というトピックの全貌を見渡せるようになる、素晴らしい良書だ。
    本書は、『がんー4000年の歴史ー上下』でピューリッツァー賞を受賞した著者、シッダールタ・ムカジー氏が書いた本だ。ブッダと同じ名前を持つことからも推測できるようにインド出身で、アメリカで医者をしている方だ。
    本書は2つのストーリーが交錯しながら進んでいく。1つは著者の家族・親族における精神疾患の物語、もう1つは「遺伝子」の姿が明らかになっていく全史的な物語だ。著者の個人的な物語があることで、少々難解なDNAの話なども非常に興味深く読み進めることができる。遺伝子の物語は、メンデルとダーウィンから始まり、遺伝学や進化論の進展、DNAの発見などを経て現代に到達する。そこでは、一般的には顧みられることの少ない人物の活躍や偉大な発見が数多くあり、わくわくしながら読み進められる。
    「遺伝子」という言葉を使う可能性のあるあらゆる人に勧められる本だ。本書のような本があるから読書はやめられない。

  • 引き続き、オーディブルはシッダールタ・ムカジー『遺伝子 親密なる人類史 上巻』を聞き始める。

    「世界を根本から揺るがすような三つの科学的概念が20世紀を三等分した(注)。原子と、バイトと、遺伝子だ。どれも19世紀にはすでに予示されていたが、20世紀に入ってからいきなり脚光を浴びるようになった。どれも初めはかなり抽象的な科学的概念として誕生したが、やがてさまざまな議論の中に入り込んでくるようになり、その結果、文化や、社会や、政治や、言語を変えた。しかし三つの概念の最も重要な類似点はその考え方だ。いずれもより大きな全体を構成する基礎的要素であり、原子は物質の、バイト(ビット)はデジタルデータの、遺伝子は遺伝と生物学的情報の基本的な最小限の単位である。
     (中略)詩人のウォレス・スティーヴンズは言語の深い構造的な謎について、「部分の総和の中には、部分しかない」と書いている。ある文の意味を理解するには単語ひとつひとつを残らず理解するしかないが、ひとつの文には単語の総和よりも多くの意味が含まれている。それは遺伝子にもあてはまる。個体というのはもちろん、その遺伝子以上のものだが、個体を理解するには、まずはその遺伝子を理解しなければならない。オランダの生物学者フーゴ・ド・フリースが1890年代に遺伝子という概念に出会ったとき、彼はとっさに、遺伝子という概念は自然界についてのわれわれの理解を変えるにちがいないと悟った。「生物の世界全体が実のところ、それほど多くはない因子をさまざまに組み合わせたり、並べ替えたりした結果なのである……ちょうど物理学や化学が、もとをたどれば分子と原子に行き着くのと同じように」

    「(注)ここでいうバイトとはかなり複雑な概念を指している。馴染みのあるコンピューター・アーキテクチャのバイトだけではなく、より一般的かつ神秘的な概念のことだ。すなわち、自然界のあらゆる複雑な情報というのは、「オン」と「オフ」の状態についての情報だけを含む個々の情報の総和として描写することができる、あるいはコードされているという概念だ。この概念のより詳細な説明と、それが自然科学および哲学におよぼす影響については『インフォメーション 情報技術の人類史』(ジェイムズ・グリック/楡井浩一訳、新潮社)を参照されたい。この理論は1990年に物理学者のジョン・ウィーラーによって最も強力に提唱された。「あらゆる粒子、あらゆる力の場、さらには時空そのものすら、その機能と、意味と、存在そのものをイエスかノーの答え、二値選択、ビッツから引き出している。要するに、あらゆる物理的なものは理論上、情報理論的なのだ」バイト(ビット)は人が考え出したものだが、その根拠となるデジタル情報の理論というのは美しい自然法則なのだ。」

    ダーウィンの進化論ができるまで。

    ◎学生時代に影響を受けた2冊。
    ・牧師ウィリアム・ベイリー『自然神学』
     複雑な機構をもったあらゆる生物はきわめて有能な設計者、聖なる時計職人である神によってつくられたとする考え方
    ・天文学者ジョン・ハーシェル『自然史哲学研究に関する予備的考察』
     物理に限らず化学も生物も、原因と結果のメカニズムで説明できる。①無から有の発生(創造)は自然哲学者の領域ではなく神の領域。②いったん創造された生命がどんなふうに進化したのを知るには、「過ぎ去った時代の壊れた遺物には、理解可能な記録が消えずに残っている」

    ◎1831年のビーグル号の航海中に影響を受けた本。
    ・地質学者チャールズ・ライエル『地質学原理』
     巨礫や山などの複雑な地質学的形状は、神の手によってではなく、侵食、堆積、沈殿といった緩やかな自然のプロセスによってつくられた。「神は(ノアの洪水のような)激変によってではなく、。何百万回も少しずつ削るようにして地球を形づくったにちがいない」

    ◎ダーウィンのBノートに描いた系統樹
    「彼があるページでひとつのズを描くと、その図が思考にこびりついた。神による創造を中心にしてあらゆる動物がそこから放射状に存在しているのではなく、「木」の枝や大きな川の支流のように、祖先の幹が枝分かれして、その枝がさらに小さな枝に分かれていき、やがて現在の数十の動物になったのではないのだろうかと彼は考えた。言語のように、地形のように、ゆっくりと冷えていった宇宙のように、動物も植物も、ゆっくりとした持続的な過程をとおして、昔の形から進化していったのではないのだろうか。」

    「変異体と人為的な選択を巧みに組み合わせることによって、驚くべき結果がもたらされることをダーウィンは知っていた。雄鶏やクジャクに二た鳩をつくることもできれば、イヌを短毛にも、長毛にも、雑色にも、まだら模様にも、がに股にも、無毛にも、短い尻尾にも、獰猛にも、おだやかな性質にも、内気にも、警戒心の強い性格にも、好戦的にもすることができた。しかしウシやイヌやハトの選択をおこなったのは人間の手だった。ではいったいどんな手が、遠くの火山島で多種多様なフィンチが生まれるように、南米の平野で巨大なアルマジロから小さなアルマジロが生まれるように導いたのだろう?
     ダーウィンは、自分が今では既知の世界の危険な端を異端へ向かってひっそりと進んでいることを自覚していた。そうした見えざる手を神に帰することは簡単だった。だが1838年10月に、同じく聖職者のトマス・ロバート・マルサスの本が彼にもたらした答えは、神とはまったく無関係なものだった。」

    ◎マルサス『人口論』
    「人口が増加するにつれ、生活資源は枯渇し、人間同士の争いは激しくなる。限りある資源は人口の本質的な増加傾向に追いつかない。人口の自然な傾向には必然的に欠乏が伴う。やがて世界の終末をもたらすような力が働いて(「季節的な流行病、疫病、伝染病が次々と襲いかかっては、何千、何万という人間をなぎ倒し」)、「人口を世界の食糧」に釣り合わせる。こうした「自然選択」を生き延びた者たちは、ふたたび残酷なサイクルを始める。ひとつの飢餓からべつの飢餓へと、シーシュポスの徒労は終わらない。
     ダーウィンはマルサスの論文の中に、袋小路を突破する答えをすぐに見つけた。この生存のための闘いここそが、見えざる手だったのだ。死こそが自然の選択者であり、残酷な形成者だった。「すぐにわかった」と彼は書いている。「(自然選択という)状況のもとでは有利な変異体が生き残り、不利な変異体が死に絶え、その結果、新しい種が形成されるのだ」
    「動物繁殖の際には親とはちがう変異体が生まれる。同種の個体同士はつねに、限られた資源をめぐって争っている。たとえば飢饉などが起きて、こうした資源が枯渇した場合には、新しい環境によりうまく適応できる変異体が「自然選択され」、環境に最もうまく適応できるもの、つまり「適者」が生き残る(「適者生存」という言葉はマルサス派の経済学者であるハーバート・スペンサーから拝借したものである)。こうして生き残った動物同士が繁殖して自らの仲間を増やすことで、同じ種の中で進化が起きる。」

    ◎アルフレッド・ラッセル・ウォレスの論文
    1839年冬にはダーウィンは次節の概要をまとめている。その後何度も手を加え、1844年には重要なパートだけを抜き出したエッセイ(といっても255ページもある)を友人に送ったが発表は見送っていた。1855年夏、ウォレスの論文が雑誌に掲載される。1857年冬には、1854年のマレー諸島への調査旅行の結果について、明確な理論を組み立てていた。ウォレスもマルサスの人口論を読んでいた。
    「答えは明らかに……最も環境に適応した(変異体)が生き延びる……そのおゆにして、動物集団の後世は環境の要求どおりに修正されていくにちがいない」
    1858年6月ウォレスがダーウィンに草稿を送る。ダーウィンは旧知のライエルに相談、ライエルの助言でダーウィンとウォレスの論文は1858年7月のロンドン・リンネ協会で同時に発表された。

    ◎1859年11月24日、『種の起源』の初版発行。初版部数1250部は初日に完売。

    ◎ラマルクの「用不用説」
    ダーウィンはたまたま生まれた変異体が自然選択の結果、生き残るのが「進化」だとして、環境への適応の結果がそのまま子孫に受け継がれるとしたラマルクとは意見を異にしていたが、何が変異体を生むか(遺伝)については当初、すべての細胞に遺伝情報を含む小さな粒子ジェミュールが含まれていて、動植物が繁殖年齢に達すると、ジェミュールの中に蓄積された除法っが生殖細胞(精子と卵子)に集まると考え、これをパンゲン説と名づけた。つまり、獲得形質は遺伝しないとしたのは、ダーウィンではない。さらに、父親と母親からの情報は混じり合って胎児に受け継がれるという「融合遺伝」を信じていた。

    ◎数学者兼電気技術者フリーミング・ジェンキンによる『種の起源』に対する批判
    「もしすべての世代で遺伝形質が「融合」しつづけるのなら、どんな変異体であれ、それが交雑によってしだいに薄められていくのを防いでいるものはなんなのだろう? 「(変異体は)やがて数の中に埋もれていくはずだ」「そして数世代ののちには、その特殊性は消えるにちがいない」
    「もし遺伝という現象に変異体を維持する(変化した形質を固定する)機能がないなら、変化した形質はすべて、融合によって消えてなくなる。次世代に自分の形質を確実に受け渡すことができないかぎり、奇形腫はずっと奇形腫のままなのだ。(中略)融合とは永遠に希釈することと同じであり、そうした希釈が続くかぎり、進化したどのような情報も保持されることはない。」

    「ダーウィンが提唱するような進化が起きるためには、情報が薄められたり、拡散したりすることなく保持されるような能力が遺伝のメカニズムに含まれていなければならない。その能力をは融合ではなかった。情報の原子が存在しなければならなかった。親から子へと移動する、不溶性で消えない個別の粒子だ。」

    ◎聖アウグスチノ修道会の修道士グレゴール・ヨハン・メンデルの論文「植物の交雑実験」(1866年)
    ・対立形質をかけあわせた交雑第一代:交雑種の形質は中間にはならず、一方の親の形質と同じになる(背の高いものと低いものをかけ合わせると必ず背の高いものだけが生まれ、中くらいの背丈のエンドウマメが生まれることもない)。親から子へと伝わる形質を「優性」、伝わらない形質を「劣性」と名づけた。
    ・雑種同士をかけあわせた雑種第二代:雑種はすべて背の高いエンドウマメだったが、その子には背の低いエンドウマメが一定の割合で再登場した。
    ・交雑によって生み出される子孫の比率は「優×優→優」「優×劣→優」「劣×優→優」「劣×劣→劣」で3:1となる
    ・メンデル実験のデータ量:28,000の苗木、4万の花、40万近くの種子。
    ・親から受け継ぐ遺伝情報は分割されず、粒子自体も割れることはない。「それぞれの形質は分解することができず、他の形質とはっきりと区別でき、独立しており、消すことができない。」
    ・メンデルの論文は1866年から1900年にかけてわずか4回した引用されず、黙殺された。

    ◎ドイツの発生学者アウグスト・ヴァイスマンによるパンゲン説の否定「獲得形質は遺伝しない」
    ・5世代にわたってマウスの尻尾を切除したが、いずれの子孫も完全な尻尾を持って生まれてきた。
    ・遺伝情報は精子と卵子の細胞だけに含まれており、獲得形質が精子と卵子に伝わる直接的なメカニズムはない。

    ◎ド・フリースらによるメンデルの再発見(1900年)と、突然変異説
    ・1897年「遺伝性の奇形」という論文で、「どの雑種もひとつの形質を制御する情報粒子を精子と卵子から1つずつ受け継ぐ。そのとき情報が失われることも融合することもない」とした。
    ・1900年に30年以上前のメンデルの論文を発見。衝撃を受ける。あわてて植物雑種についての論文を発表、メンデルの実験については言及せず。
    ・同時期に、ドイツの植物学者カール・コレンス、ウィーンの植物学者エーリヒ・フォン・チェルマク=ザイゼネックも別々にメンデルの論文を再発見。ド・フリースはメンデルの研究を意図的に盗んだ、科学的な剽窃行為を犯したも同然だと非難した。ド・フリースは渋々それを認めたが、さらにその先へ。

    「ド・フリースはその場所で採集した5万個の種子を栽培した。オオマツヨイグサはその後の数年にわたって勢いよく増えつづけ、その過程で800もの新たな変異体が自然に発生した。巨大な葉をもつもの、毛深い茎のもの、花の形が奇妙なもの。自然はめずらしい怪物を自発的に吐き出しており、それこそが、進化の第一歩としてダーウィンが提唱したメカニズムだった。自然界に備わった気まぐれな性質から、ダーウィンはそうした変異体を「変種(スポート)」と読んだが、ド・フリースはより厳粛な響きの言葉を選び、「変化」を意味するラテン語から取って、それらを「突然変異体(ミュータント)」と名づけた。(注:ド・フリースの「突然変異体」は実際には自然発生的な変異体ではなく、戻し交雑(第一代雑種とその親の一方との交雑)の結果だった。)
     ド・フリースは自らの観察結果の重要性にすぐに気づいた。こうした突然変異体こそが、ダーウィンのパズルの欠けたピースにちがいなかった。事実、自然発生的な突然変異体(たとえば、巨大な葉を持つオオマツヨイグサ)の発生と自然選択を組み合わせたなら、ダーウィンの冷徹な進化のエンジンが自動的にかかることになる。突然変異が変異体を生み、正常な生物の集団の中でときおり、長い首のレイヨウや、短いくちばしのフィンチや、巨大な葉の植物が自然に発生する(ラマルクの考えとは対照的に、こうした突然変異体は意図的につくられるのではなく、偶然によって生まれる)。こうした変異体の性質は遺伝する。つまり精子や卵子の中の情報として運ばれる。動物が生き残りをかけて闘う中で、最も環境に適応した変異体が次々と選択されていく。そうした突然変異は子に受け継がれ、そのようにして新種が誕生し、進化が進んでいく。自然選択は個体に作用するのではなく、それらの遺伝単位に作用する。ニワトリというのは卵にとって、よりよい卵をつくるための手段にしかすぎないのだとド・フリースは気づいた。」

    ◎「メンデルのブルドッグ」ことイギリスの生物学者ウィリアム・ベイトソン(遺伝学geneticsの発案者)の危惧
    「人々が実際に啓発され、遺伝についての事実が……一般に知られるようになったら……どうなるだろう?」「ひとつ確かなことがある。人類が遺伝に干渉しはじめるということだ。おそらくイギリスにおいてではなく、より過去と訣別する用意のできた、〝国家的な効率〟を渇望している国で……。だが、将来的な影響が未知数だからといって、実験が長いあいだ延期されたためしはない」
    「ある力が発見されたなら、人間は必ずそれを手に入れようとする」「遺伝の化学はまもなく、とてつもない規模の力を人類に与えるだろう。そしてどこかの国では、それほど遠くない未来のどこかの時点で、その力が国家の構成を操作するために使われることだろう。その国にとって、あるいは人類全体にとって、そうした操作が最終的に善となるか悪となるかはまたべつの問題である」

    突然変異はある目的や方向性をもって起きるのではなく、ランダムに起きる。そのため、ほとんどの変異体は淘汰圧を生き残れず、いずれ消える運命にある。が、たまたま環境に適応したものがあれば、それが次世代に受け継がれていく。ミュータントが出てきたときはみな「奇形」なのだ。だが、ある環境においては、その奇形こそが強みとなる。環境が不変なら、淘汰圧は一方向に働くが、環境そのものが変わっていくので、その時々に要請される「最適解」は移り変わっていく。「奇形」を異物として排除する優生思想の考え方は、進化論が生んだといわれるが、完全に間違った理解に基づいていて、進化論が要請するのは、生存のために遺伝的多様性をできるだけ広げておくことなのだ。優生思想が間違っているのは、環境がいつまでも永遠に同じだという暗黙の前提に立っているからで、劣等?遺伝子を排除して、遺伝的に「純化」していった種は、現在の環境に最適化しすぎて、環境の激変に耐えられなくなるという事実を無視している。紫外線が何%増えるとか、平均気温が何度上がる/下がるとか、宇宙線が地表に届くとか、放射線がばらまかれるといった環境の激変が起きたとき、遺伝的に均一な種はおそらくその変化を乗り越えられない。

    オーディブルはシッダールタ・ムカジー『遺伝子 親密なる人類史 上巻』も続き。

    ◎「優生学 eugenics」という言葉を生み出したのはダーウィンのいとこフランシス・ゴールトン
    「生き残りと選択をとおして、自然が動物にこれほどまでにすばらしい効果をおよぼすことができるなら、人間の介入によって、人類を優れたものにする過程を加速させることができるのではないか。(中略)最も強く、最も賢く、「最適な」人間を選択的に、つまり不自然な選択によって増やしたならば、自然が無限に長い年月をかけて達成しようとしてきたことを、ほんの数十年で達成できるのではないか」

    ◎遺伝の単位「遺伝子gene」という新語をつくったのは植物学者ウィルヘルム・ヨハンセン
    1909年ダーウィン&ド・フリース由来の「パンゲンpangene」を縮めて「gene」とした。

    ◎産業革命の影響に関する歴史学者ダニエル・ケヴルズの引用
    「産業革命によってもたらされた技術革新はそこらじゅうで、人間には自然を支配できることを裏づけていた」
    自然は畏怖の対象から、征服し、コントロールする対象へ。

    ◎ゴールトンの優生学は「強者の選択」
    ・1904年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにおけるゴールトンの講演
    ・適者の選択を加速させる=強者だけを選択的に交配させること。
    「どんな生物であれ、病んでいるよりも健康なほうがいい。虚弱であるよりも頑丈なほうがいい。要するに、どんな種にしろ、種の中の悪い個体であるよりは、よい個体であるほうがいいのだ。それはヒトも同じである」
    「最もすぐれた家系の最もすぐれた形質の記録を社会が保管すればいい(中略)。そうすることで、種馬の人間バージョンをつくればいいのだ」

    ◎精神科医ヘンリー・モーズリーの反論
    ・イングランド中部地方の無名の革手袋商人の息子がシェイクスピアになった。「彼には5人の兄弟がいたが、(ウィリアムたがひとりが)ずば抜けて優秀で、彼以外はみなごく平凡だった」
    ・欠陥のある天才のリスト:病弱だったニュートン、喘息持ちの進学者カルヴァン、下痢発作とうつ症状に苦しんだダーウィン、生涯の大半をベッドで過ごした哲学者ハーバート・スペンサー(適者生存の生みの親)

    ◎SF作家H.G.ウェルズが主張したのは「弱者の断種」
    ・選択的な近親交配は逆説的に、より弱い、より出来の悪い世代を作り出す可能性がある。
    ・彼の著作『タイム・マシン』には、純粋さと美徳をもつ者を近親交配させつづけた結果、好奇心も情熱も持たない、病弱で幼稚な人間しかいなくなった未来が描かれている。
    ・唯一の解決策は、社会から弱者を選択的に排除すること。
    「人種改良を可能にするためには、成功者を増やすのではなく、失敗者に断種を施すべきだ」

    ◎優生学が受け入れられた背景
    「ヴィクトリア朝時代の多くのエリートと同様に、ゴールトンや彼の友人たちは人種の退化をひどく恐れていた(17世紀から18世紀にかけて、イギリスは植民地の先住民と遭遇した。ゴールトン自身も「野蛮な先住民」と遭遇し、その結果、白人種の純粋さを維持し、異人種間結婚を阻止しなければならないと確信するようになった)。1867年の第2回選挙法改正によって、イギリスの労働者階級にも選挙権が与えられ、1906年には、最も強力に守られた政治の要塞が襲われて29議席を労働党に奪われ、その結果、イギリスの上流社会に不安が広がっていた。労働者解禁の政治的な権限が高まることによって、その遺伝的な権限も高まるはずだとゴールトンは確信した。子供をどっさりこしらえ、遺伝子プールを支配し、国家を完全なる凡庸へと引きずり下ろすはずだ。並の人間というのは退化していくものであり、劣った人間はいっそう劣っていくのだ。」
    「トマス・ホッブスは「貧しく、汚らわしく、野卑(ブルティッシュ)で、背の低い」人間の自然状態を憂慮していたが、ゴールトンは遺伝的に下等な者たち(貧しく、汚らわしく、背の低いイギリス人(ブリティッシュ)に制圧された未来の状態を憂慮していた。さえない大衆とは子を絶え間なくもうける大衆であり、放置したならば、膨大な数の下等な子が生まれてくる」
    「ウェルズは、ゴールトンの取り巻きグループの多くが痛感してはいたものの、言葉に出す勇気がなかった考えをはっきり述べただけだった。弱者の選択的な断種(消極的優生学)によって、強者の選択的な繁殖(積極的優生学)を増強して初めて、優生学はうまくいくという考えだ。」

    ◎アメリカにおける優生学を主導した動物学者チャールズ・ダヴェンポート
    ・1910年に優生学記録局を設立、1911年に発表した『人種改良学』は優生学の教科書となった
    ・遺伝的な不適者を収容する隔離所(コロニー)
    「全人口の約10パーセントが下等な地を受け継いでいる」「そうした者たちが有用な市民を生み出す可能性は皆無であり……アメリカ合衆国の8つの州ではすでに、断種を許可し、義務づける法律が導入されている……ペンシルヴェニア、カンザス、アイダホ、バージニアでは……かなりの数の人々に不妊手術を施しており、個人病院や大病院の外科医がすでに何千もの手術をおこなっている」

    『特捜部Q:カルテ番号64」に、「密かなる闘争」と称して違法中絶、不妊手術をくり返してきたクアト・ヴァズ率いる極右政党「明確なる一線」が出てくるが、劣等人種の断種という根本的に間違った生存戦略を支持する人が歴史上何度もくり返し登場するのはなぜなのか。環境が激変したときにどんな能力が有効かは誰にも予測できない。だから遺伝子プールをできるだけ多様に保っておくことに意義があるというのが、進化論が導き出す唯一の方策なはずなのに、なぜそこに幻を見てしまうのか。それ以前に、何をもって、いったい誰が優劣を判断するのか。そこにバイアスが混じらないはずがないし、醜悪なレイシストに運用をまかせたら、次は誰の番だという恐怖と疑心暗鬼が世の中を覆い、それこそSFでよく描かれるディストピアが現出するしかないではないか。百歩譲って客観的な判断基準なるものができたとしても、それが示すのは、現在の環境に適しているかどうかだけで、大気組成が変わる、土壌の酸性度が変わる、海洋の塩分濃度が変わる、地表付近の放射能濃度が変わる、降水量が激減する、砂漠化・乾燥化が進む、平均気温が急激に上がる/下がる、栽培できる植物の種類が劇的に変わる、紫外線量が変わるといった環境の激変に対しても、その基準が有効なのかはわからない。

    「1890年から1924年にかけて、1000万人近い移民(ユダヤ人、イタリア人、アイルランド人、ポーランド人の労働者)がニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴに流入して通りやアパートを埋めつくし、外国の言葉や儀式や食べ物を市場に氾濫させた(1927年には、ニューヨークとシカゴの人口の40パーセント以上を新移民が占めていた)。1890年代にイギリスで階級の不安が優生学の取り組みを活性化させたのと同じように、1920年代には「人種の不安」がアメリカでの優生学の取り組みを活発化させた。(中略)
     プリディのような優生学者はずっと、アメリカに移民が氾濫することによって「民族自滅」がもたらされるのではないかと恐れていた。正しい人々がまちがった人々に圧倒され、正しい遺伝子がまちがった遺伝子に汚染されるのではないか。メンデルが示したように、遺伝子が根本的に分割できないものならば、腐敗した遺伝子が一度広まってしまえば、二度と消すことはできないはずだった。(中略)ある優生学者が述べているように、「欠陥のある遺伝資源を断ち切る」唯一の方法は、遺伝資源をつくり出している器官を切除すること、つまり、キャリー・バックのような遺伝的不敵者に強制的な断種を施すことだった。」

    「民族自滅」や「民族荒廃」という神話に対置していたのは、民族と遺伝子の純粋さという神話だった。20世紀初頭に何百万人ものアメリカ人が夢中になって読んだ人気小説のひとつがエドガー・ライス・バローズの『類人猿ターザン』だ。孤児となり、アフリカのサルに育てられたイギリスの貴族を主人公とする冒険小説である。サルに育てられても、主人公は両親から受け継いだ白い肌や、ふるまいや、体格を保っていただけでなく、清廉さや、アングロサクソン人の価値観や、食器類の直感的な正しい使い方までも忘れていなかった。「非の打ちどころのないまっすぐな姿勢と、古代ローマ最強の剣闘士のような筋肉」の持ち主であるターザンは「育ち」に対する「生まれ」の究極の勝利を体現していた。ジャングルのサルに育てられた白人ですらフランネル・スーツに身を包んだ白人の品を保つことができるなら、民族の純度というのはまちがいなく、どんな環境においても、保持することができるはずだった。」

    ◎1927年、インディアナ州が「常習的な犯罪者、白痴、痴愚、レイプ犯」に対して断種をおこなう法律の改訂版を可決
    「メンデルの最初のエンドウマメ実験と、裁判所の承認によるキャリー・バックに対する断種手術とのあいだいには62年というわずかな時間の隔たりしかない。しかしこの60年という短い期間に、遺伝子は植物学の実験における抽象概念から、社会を統制するための強力な道具へと変貌を遂げた。」

    ◎コロンビア大学の動物学者トマス・モーガンによるショウジョウバエの研究
    ・彼の「ハエ部屋」は「メンデルの庭」と同じく、遺伝の歴史における伝説的な場所となる。
    ・「遺伝子は物理的に互いに連鎖している」「染色体とは「ひも」であり、遺伝子は永久にそのひもでつながっている」
    「モーガンはメンデルの法則の重要な修正点を見いだした。遺伝子はばらばらに移動するのではなく、パッケージされたまま移動するということだ。情報のパッケージはそれ自体が染色体というパッケージに入っており、染色体というパッケージは、細胞というパッケージに入っている。だが、この発見にはさらに重要な意義があった。モーガンは遺伝子同士だけでなく、ふたつの分野も結びつけたのだ。遺伝子とは「単なる理論上の単位」ではなく、細胞の中の特定の場所に、特定の形で存在する物質的な「物」だったのだ。」

    ◎ロシア革命と血友病と怪僧ラスプーチン
    ・血友病遺伝子は女性も保有するが、発症するのは男性だけ。
    ・英国王ヴィクトリア女王は血友病遺伝子をもっていたため、8番目の男子レオポルドは30歳で脳出血死。その遺伝子は2番目の女子アリスを経由して、その娘であるロシア皇后アレクサンドラに引き継がれる。
    ・アレクサンドラの息子、ロシア皇太子アレクセイも血友病患者。アレクサンドラは祈祷師グレゴリエヴィッチ・ラスプーチンを頼るようになる。ラスプーチンに操られるアレクサンドラの姿を見て、君主制に見切りをつける人が出た。
    ・1916年、ラスプーチンは毒を盛られ、銃で撃たれ、切りつけられ、ハンマーで頭をかち割られ、川に投げ込まれた。
    ・1918年、皇帝ニコライ2世一家全員がボルシェヴィキの命を受けた銃殺隊によって殺害された。

    ◎遺伝情報はまざらないはずなのに、表現型がなめらかなベル曲線を表すのはなぜ?
    「生物界では、あらゆる「見える」ものにはほぼ完璧な連続性があると考えられていた。ケトレーやゴールトンなどの19世紀の生物統計学者は、背の高さや体重、さらには知能までも含む人間の形質が滑らかで連続したベル型の曲線を描いて分布していることを示した。ひとつの生物の成長(最も明白な遺伝情報の連なり)ですら、ぎざぎざではなく滑らかで連続した段階を経ていた。イモムシは階段状の段階を経てチョウになるわけではなかった。フィンチのくちばしの大きさをプロットし、点を線で結んだなら、連続カーブを描くはずだった。いわば遺伝のピクセルである「情報の粒子」はどのようにして、生物界の外見上の滑らかさをもたらしているのだろうか?」

    ◎数学者ロナルド・フィッシャーによる解答
    「どのような形質であれ、それをつかさどる3つか5つの遺伝子の効果を混ぜ合わせたなら、ほぼ完璧に連続した表現型をつくり出すことができる」
    ・「人間の多様性の正確な数」はメンデルの遺伝理論の範囲内で説明できる
    ・1個の遺伝子の効果は点描画法の1点のようなもの。「近くで見たならば、それぞれの点を見分けることができるが、自然界でわれわれが遠くから目にしたり、経験したりしているものは点の集合体、すなわち、ピクセルが結合した継ぎ目のない画像なのだ」

    ◎自然選択が起きるためには、そもそも選択できるだけの多様性が生じていなければならない
    ・ド・フリースは突然変異が多様性をもたらすと言った。
    ・ならば、突然変異は、どんなときに起きるのか?

    ◎ウクライナ出身の生物学者テオドシウス・ドブジャンスキーによるショウジョウバエ実験
    ・2つの容器にABC、CBAという2種類の系統を1:1の比で混ぜて入れ、低温と常温に分けて置いた。
    ・ハエたちは閉じた空間内で飼育され、4カ月にわたって世代交代をくりかえす。
    ・低温容器ではABCがほぼ2倍、CBAは減っていた。室温容器はその逆の比率。
    →「遺伝型が表現型を決定する」のはまちがっていないが、環境(室温)要因も影響を与えている
    →遺伝子自体は子に受け継がれても、それが実際の特徴へと浸透する能力は不完全。ある遺伝子が受け継がれても、それが実際の特徴として発現する程度は個体ごとに異なっている。(乳がんリスクを高めるBRCA1遺伝子を変異を持つ女性がすべて乳がんを発症するわけではない。30歳で進行の速い転移性乳がんを発症する人もいれば、遅効性の乳がんを発症する人もいるし、なかにはまったく発症しない人もいる)
    →「遺伝型+環境+誘因+偶然=表現型」という式が成り立つ。

    「自然界では、野生の生物集団の中に遺伝型による多様性が存在し、そうした多様性が環境や、誘因や、偶然と相交わることによって個体の特性が決定される。気温の上昇や食糧の急激な現象などの厳しい選択圧が加わると、「最適な」表現型を持つ個体が選択される。そうしたショウジョウバエが選択されて生き残ることで、その遺伝型の一部を受け継いだ幼虫が多く生み出され、選択圧に適応したショウジョウバエが多く誕生する。選択のプロセスが作用するのは身体的あるいは生物学的な特質であり、その結果、そうした特質をもたらしている遺伝子が受動的に選択されるのだ。(中略)
     いわば、まるで荷車が馬を引くかのように表現型が遺伝型を前に引っぱっているのだ。あるもの(適応力)を探し求めていたはずの自然選択が偶然に、べつのもの(適応力を生み出す遺伝子)を見つけるという事実は、自然選択にまつわる永遠の謎である。表現型の選択を介して、適応力をつくり出す遺伝子が集団の中で増えていき、結果的に、まわりの環境により適応した集団が生み出される。完璧などというものは存在せず、あるのはただ環境と生物個体とのたゆみない、飽くなき適合のみである。それこそが進化の駆動力なのだ。」

    ◎交雑が起こる限り、新しい種が形成されることはない。別の種と交雑できないものが種の定義そのものだから。→新しい種が誕生するには、交雑を不可能にするなんらかの要因が必要。ドブジャンスキーは地理的隔絶が原因だと考えた。
    「たとえば、ある島に生息していた鳥の群れの半分が嵐に吹き飛ばされて遠くの島へたどり着き、もう二度と故郷の島へ帰れなくなる」「この場合、ふたつの集団はダーウィン流に独立して進化し、互いが生物学的に不適合になるまで、それぞのれ島で、ある特定の遺伝的変異体が選択されていく。こうなると、たとえ新しく誕生した鳥たちが故郷の島へ戻ることができたとしても、長いあいだ会うことのなかったいとこのそのまたいとこととのあいだに子孫を残すことはできないのだ。ふたつの島の鳥同士のあいだに生まれた子は遺伝的不適合性(いわば文字化けしたメッセージ)を有しており、そのせいで生存できなかったり、不妊になったりする。地理的な孤立は遺伝子の孤立をもたらし、最終的に、繁殖の孤立をもたらす」
    ドブジャンスキーはこれを実験によって確かめた。
    「彼はまず、ふたつの「種」のそれぞれのショウジョウバエを1匹ずつ同じケージに入れた。するとショウジョウバエは交配し、子が生まれたが、幼虫は成虫になっても子を残すことができなかった。遺伝学者たちは連鎖解析を用いて、子孫を不妊にさせる原因の遺伝子配列を突き止めることができた。それこそがダーウィンの理論で欠けていた部分だった。遺伝的不適合によってもたらされる生殖の不適合が、新種誕生の鍵を握っているのだ。」

    オーディブルはシッダールタ・ムカジー『遺伝子 親密なる人類史 上巻』の続き。

    ◎ドブジャンスキーによる優生思想=ニセ科学批判
    「アメリカやヨーロッパの優生学者は、人間の「良さ」を促進するために、「良さ」を人為的に選択すべきだと主張していたが、自然界では唯一の「良さ」というものは存在しない。生物集団には多種多様な遺伝型が存在し、さまざまな遺伝子のタイプが共存し、ときに重複している。人類優生学者の考えとはちがって、自然は遺伝的多様性をなくすことを望んではいない。実際、自然な多様性というのは生物にとって欠くことのできない蓄えであり、不利益よりもはるかに多くの利益をもたらすものだとドブジャンスキーは気づいた。多様性がなければ(深い遺伝的多様性がなければ)、生物は最終的に進化する能力を失ってしまうからだ。」
    「野生のショウジョウバエの集団では、最初から優れた遺伝型というものは存在せず、ABCとCBAのどちらが生き残るかは、環境および、遺伝子と環境の相互作用で決まった。(中略)ある寒い夜は、ある特定のショウジョウバエを選択するかもsりえないが、ある夏の日は、まったくべつのショウジョウバエを選択するかもしれない。どちらが道徳的に優れているとか、生物学的に優れているということはない。ある特定の環境に適応できたか、できなかったかだけのちがいなのだ。」
    「ゴールトンをはじめとする優生学者は、知能や身長や美しさや道徳性の遺伝子の質を向上させるための手っ取り早い生物学的な方法として、そうした複雑な表現型(知能、身長、美しさ、同毒敵な正しさ)を選択しようと考えた。しかし表現型というのはひとつの遺伝子によって1対1の関係で決まるわけはなく、遺伝子を選択するために表現型を選択するというのはまちがったやり方だった。もし遺伝子と、環境と、誘因と、偶然が生物の最終的な特徴を決めているのだとしたら、それらひとつひとつの要因がもたらす相対的な得強を解析せずに知能や美を高めようとしても、優生学者は挫折するだけだ。」

    ◎ハーマン・マラーによるショウジョウバエに対するX線照射実験→突然変異率が劇的に向上する
    ①遺伝子は物質でできていることの証明
    ②遺伝子の人為的な操作の可能性「突然変異率を変え、変異体を選択していくことによって、進化のサイクルをハイパードライブに突入させることができるのではないか」「自分がショウジョウバエの神になって、新しい種や亜種を研究室でつくり出せるのではないか」
    →ヒトゲノムを人為的に変化させる可能性。

    ◎ナチス主義は「応用生物学」にすぎない。その目的は「民族衛生」だった
    「「民族衛生」とは、個人衛生が個人の身体的な浄化であるのと同じく、民族の遺伝的な浄化だった。さらに、個人衛生が身体から汚れや排泄物を日々取り除く作業であるように、民族衛生は遺伝的な汚れを取り除き、その結果、より健康で不純物のない民族をつくり出す作業だった」
    「全体を救うために、縮退した細胞を生物が無慈悲に犠牲にしたり、病んだ器官を外科医が無慈悲に取り除いたりするのと同じように、血縁集団や国家などの組織や、病気の遺伝形質を持つ個人が有害な遺伝子を子孫へ広げないよう介入することに過度の不安を感じたり、ためらったりしてはならない」

    ◎断種(未来の不純物を取り除く)から直接的な排除(現在の不純物を取り除く)へ
    ・1933年ナチスに全権委任法→断種法「遺伝性疾患を患っている者には誰であれ、外科手術による断種を施してよい」
    ・1933年危険な犯罪者に対する断種法
    ・1935年ドイツ人の血と名誉を守るための法律(ニュルンベルク法):ドイツ人とユダヤ人の婚姻、アーリア人種とユダヤ人の婚外性交を禁止
    ・1939年「生きるに値しない命(重度の遺伝性および先天性疾患)」に対する安楽死プログラムの開始(3歳以下→思春期の子供→非行少年→大人にまで拡大)→プログラム本部の住所にちないで「T4作戦」と呼ばれる。
    ・1941年までにT4作戦によって25万人近くの男女・子供が安楽死させられ、1933〜43年にかけて40万人が断種させられた。

    ◎「死の天使」人類遺伝学者にしてSS将校のヨーゼフ・メンゲレ
    ・被収容者に対して頻繁に人体実験をおこなった最も邪悪なナチスの研究者
    ・アウシュビッツの主任医官となった彼は、収容所内の双子を対象にした残忍な実験をおこない、何百人もの双子がその犠牲となった。そのせいで、戦後、双生児研究が表立っておこなえるようになるまで数十年を要した。

    ◎ナチスによる「大量虐殺genocide」は「遺伝子gene」と共通の語源をもつ
    ・ホロコースト時代、600万人のユダヤ人、20万人のジプシー(ロマ人)、数百万人のソ連人、ポーランド人、同性愛者、インテリ、作家、芸術家、反体制主義者が収容所やガス室で虐殺された

    ◎ドイツ人神学者マルティン・ニーメラーの有名な詩
    「ナチスが社会主義者を襲ったとき、私は声をあげなかった。
    なぜなら私は社会主義者ではなかったから。
    次にナチスが労働組合員たちを襲ったときも、私は声をあげなかった。
    私は労働組合員ではなかったから。
    その後ナチスがユダヤ人を襲ったときも、私は声をあげなかった。
    私はユダヤ人ではなかったから。
    それからナチスが私を襲ったとき、私のために声をあげる者は、ひとりも残っていなかった。」

    ◎ナチスが遺伝学を民族浄化の道具としたのに対して、ソ連は遺伝という概念を否定した。
    ・人間は変えられる。「もし国が浄化を必要としているのなら、遺伝子の選択ではなく、個人の再教育と過去の抹消によってのみ達成できる。浄化すべきなのは遺伝子ではなく、脳なのだ」
    ・農学者トロフィム・ルイセンコによるニセ科学。小麦の株を厳しい寒さと日照りにさらすと、小麦が鍛えられて、収穫量が増える。「ショック療法=再教育」で小麦も人間も変えられるという発想がソ連の権力者たちに気に入られる。
    ・遺伝は変えられない(ユダヤ人はユダヤ人だ)から優生学→民族浄化に走ったドイツに対して、遺伝はまやかしで再プログラムできると信じたソ連は、あらゆる差異を消すことで集団の利益が達成できるとした。
    「ナチス主義とルイセンコ主義は、遺伝についての正反対の考え方にもとづいていたものの、そのふたつの活動には、目を瞠るほどの類似点がある。(中略)遺伝形質は絶対に消せないという信念を持たないナチス主義を想像できないのと同じように、遺伝形質は完全に消去できるという信念を持たないソ連を想像することはできない。どちらの場合も、国家主導の「浄化」メカニズムを支えるために化学を意図的にゆがめていたという事実は驚くに値しない。遺伝子と遺伝の言語を私物化することによって、権力と国家のシステム全体が正当化され、強化されたのだ。」

    ◎ナチスの台頭で大量の頭脳が国外に流出
    ・流出した科学者たちは国を越境しただけでなく、ジャンルも越境した。原子物理学者が生物学に興味を抱く。
    「生物学は科学的問題にあふれた、今なお未開の分野だった。物質をその基本的な単位へと還元した原子物理学者は、生命をも物質単位に還元したいと考えた。原子物理学者のそうした気風(分割できない最小の粒子や、普遍的なメカニズムや、系統だった説明を執拗なまでに追い求める姿勢)はたちまち生物学に浸透し、生物学という分野を新たな方法や新たな問題へ向けて動かすことになった。そしてその気風の影響はその後何十年も消えることがなかった。生物学へと移っていった物理学者や化学者は生物を物理学的に、化学的に(分子や、力や、構造や、作用や反作用といったものをとおして)理解しようと努め、そうした新たな大陸への移住者たちはやがて、大陸の地図を書き換えることになった。」

    ◎量子論の提唱者エルヴィン・シュレーディンガー『生命とは何か 物理的に見た生細胞』
    ・まったくの仮説にもとづいて遺伝子の分子的性質の説明を試みた1943年ダブリンでの講義を収録。
    ・遺伝子は矛盾した性質をもつ特異的な分子。化学的秩序を持ちながらも(さもなければ複製や遺伝はできない)、それと同時にきわめて変則的なはず(さもなければ遺伝形質の多様性を説明できない)。その分子は膨大な情報を運べなければならないが、同時に、細胞の中に収まるほど小さくなければならない。
    「シュレーディンガーは複数の化学的なひもが「染色体繊維」に沿って伸びているような化学物質を想像し、そうしたひもに暗号が書かれているのかもしれないと考えた。「小さな暗号の中に多種多様な内容が圧縮されているのかもしれない」ひもにとおされたビーズの並び順に生命の秘密の暗号が含まれているのかもしれない」

    血の純度を高めようとしたナチズムは、生物進化のメカニズムを根本から誤解していた。破壊的イノベーションに匹敵する根本的な進化は純度を高めていった先にあるのではない。むしろ中心から外れた周縁部のフロンティアで起きるのだ(1つの環境に過剰適応していくプロセスは持続的イノベーションに比せられる)。発明や発見も同じで、別のジャンルとの接触によって生まれた「新しい組み合わせ(新結合)」こそがイノベーションの種なのだ。同質的な人の集まりからは、常識を覆すような飛躍的なアイデアは生まれない。他ジャンルとの融合やケミストリーこそ、知的発展の契機となる。その意味では、純血ではなく混血にこそ、人類進化の可能性が秘められているはずなのだ。人種のサラダボウルが文化の発信地となるように。

    ◎1944年ロックフェラー大学オズワルド・エイヴリーが「遺伝子=DNA」と特定
    ・DNA(デオキシリボ核酸):A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)の4つの塩基からなる
    ・RNA(リボ核酸):A、G、C、U(ウラシル)の4つの塩基からなる

    ◎生物学と化学の融合→生化学
    ◎生物学と物理学の融合→生物物理学
    ・「生きた細胞というのは連動する化学反応の入った袋にすぎない」
    ・「生命とは……化学的な出来事だ」
    ・生化学者は、細胞を分解し、細胞を構成する生きた化学物質を分類しはじめた。糖はエネルギーを供給し、脂質はエネルギーを蓄え、タンパク質は化学反応を可能にし、生化学的プロセスのペースを速くしたり遅くしたりすることで、生物学的世界の配電盤の役割をはたしていた。
    ・だが、タンパク質はどうやって、それを可能にしている?→その答えは分子構造にあった。
    「分子の物理的構造が化学的性質を可能にし、分子の化学的性質が生理機能を可能にし、分子の生理機能が最終的に、生物学的活動を可能にしている。生物の複雑な働きというのは、こうしたいくつもの層の重なりとして理解できる。物理学が化学を可能にし、化学が生理学を可能にしているのだ。シュレーディンガーの「生命とは何か」という問いに、生化学者なら「化学物質にちがいない」と答えるかもしれず、「化学物質とは何か?」という問いに、生物物理学者なら「分子にちがいない」と答えるかもしれない。」
    「生命を説明するのに、特別な命の力を呼び覚ましたり、神秘的な液体を登場させたりする必要はなかった。生物学は物理学だった。マキナ・エン・デウス(神の中の機械)なのだ。」

    ◎DNA二重らせん構造の発見
    ・ロンドン大学キングズ・カレッジの物理学者モーリス・ウィルキンズによるX線回析(DNAの3次元構造を決定)
    ・同大のロザリンド・フランクリンによるDNAの写真撮影
    ・ケンブリッジ大学のジェイムズ・ワトソンとフランシス・クリックによるDNAの模型作り
    ・1952年5月2日金曜夜、フランクリンによるDNAのほぼ完璧な写真撮影
    ・翌日夜フランクリンによる写真撮影→火曜の午後に現像(「写真51」とラベリング)
    ・1953年1月末、ワトソンがウィルキンズを訪問したとき、その写真を見せられる。フランクリンの許可は得ていない。
    ・ウィルキンズの述懐「ロザリンドの許可をとるべきだったのかもしれないが、私はそうしなかった」「状況がとても込み入っていたんだ……少しでも状況がまともだったら、私はもちろん、彼女の許可を求めていたはずだ。とはいえ、少しでもまともだったなら、そもそも許可だのなんだのという問題自体、生じなかったはずだ……いずれにしろ私はその写真をもっていた。写真にはらせん構造が写っていた。見逃しようもなく」
    ・ワトソンの述懐「写真を見た瞬間、口があんぐり開いて、心臓の鼓動が速くなった。そこに写っていたパターンは以前のものに比べて驚くほどシンプルだった……その黒い十字架のような形は……らせん構造からしか得られなかった。ほんの数分間計算すれば、DNA分子の中の鎖の数がわかるはずだった」
    ・コロンビア大学の生化学者エルウィン・シャルガフは、DNAを粉々にした結果、AとTの量、CとGの量がほぼ等しいことを発見。
    ・1952年冬、キングズ・カレッジを訪れた視察委員会のマックス・ベルツは、フランクリンが作成したDNA研究に関する最新の報告書を、本人に無断でワトソンとクリックに渡した。ベルツの述懐「管理上のことについてはよく知らなかったし、むとんちゃくだった。報告書は〝極秘〟ではなかったから、隠しておかなくてはならない理由はないと思ったんだ」
    ・1953年2月28日午前中、ワトソンはらせんの内側には、異なる塩基同士の対があるのではないかと考えた。
    「アデニンとチミンのペア(A→T)、グアニンとシトシンのペア(G→C)は同じ形をしていることにいきなり気づいたんだ……何もでっちあげなくても、その2種類の塩基対の形は同じになった」
     その2種類の塩基対はらせんの中心を向いた状態で、簡単に重ねられることにワトソンは気づいた。今になってようやく、シャルガフの法則の重要性がはっきりわかった。AとT、GとCの量はつねに同じでなければならなかったのだ。なぜなら、それらはつねに、互いを補っているからであり、ファスナーの向かい合う務歯だったからだ。最も重要な生物学的物体は対になっていかなければならないのだ」ワトソンはクリックがオフィスにやってくるのが待ちきれなかった。「クリックがやってくると、まだ彼が部屋に入りきらないうちに伝えたんだ。すべてを解決する答えを僕らは手に入れたって」
    ・1953年3月第1週、ワトソンとクリックは模型の完全版をつくる。翌朝ウィルキンズがそれを見にやって来た。
    「模型は研究室のテーブルの上にそびえるように立っていた。生きているみたいだった。生まれたばかりの赤ん坊を見ているような気がして……まるで、模型にこう話しかけられているみたいだった。〝きみがどう思おうかなんて関係ない……自分が正しいってことが僕にはわかっているからね」
    ・2週間後にフランクリンも模型を見た。その瞬間、そこに美しい解決策があることを悟った。
    「骨格が外側に位置するおちう事実とA-T、C-Gという特定の塩基対がつくられているという事実に異議を唱える理由はまったくなかった」
    ・ワトソンいわく「あまりに美しく、真実でないわけがなかった」
    ・1953年4月25日、ワトソンとクリックの論文「核酸の分子構造――デオキシリボ核酸の構造」が雑誌ネイチャーに掲載される。その論文には、ゴズリングとフランクリンの共著論文が添えられ、二重らせん構造を裏付ける結晶学的証拠が提示されていた。さらにウィルキンズの論文も掲載され、DNA結晶から得られる実験データを示して証拠をいっそう強固なものにしていた。その論文の締めくくり。
    「DNAの塩基が特定の対を形成しているというわれわれの仮説が、遺伝物質の複製というメカニズムの存在を示唆している点を見逃すことはできない」

    ◎DNAの二重らせん構造
    ・らせんは右巻きで、直系は23オングストローム(1Å=100億分の1メートル)で、100万本のらせんを「O」の文字の中に詰め込むことができる
    ・ヒトの体内にあるDNAの全長は2メートル。DNAが縫い糸くらいの太さだとすると、全長は200キロメートルにもなる
    ・糖とリン酸からなる骨格はらせんを描いており、そこからA、T、G、Cの4つの塩基がらせん階段の踏み板のように内側に突き出している。2本のらせんから各々内側に向かって突き出た塩基同士は、ちょうどらせんの真ん中あたりで手を繋いで、つながったような構造になっている。その組み合わせはAとT、CとGと決まっていて、これをDNA二重連鎖の相補性という。互いに相補的なDNA鎖同士は同じ遺伝情報を持っている、陰と陽の関係で。
    ・AとT、GとCのあいだの分子的な力がファスナーのように2本の鎖をくっつけている。
    ・DNAの二重らせんは、自分の鏡像のような暗号と永久に絡み合った、4つのアルファベットからなる暗号ととらえられる。
    「ワトソンとクリックのDNA模型は、世代から世代へとメッセージを伝える謎めいた運び手という遺伝子についてのひとつの概念の終わりと、次の概念の始まりを示していた。情報を書き込み、蓄え、個体から個体へと伝えることのできる化学物質、あるいは分子という概念だ。20世紀初頭の遺伝学のキーワードが「メッセージ」だとしたら、20世紀後半のキーワードは「コード(暗号)」ということになるかもしれない。遺伝子がメッセージを運ぶということはすでに半世紀前から明らかだった。次の問題は、人間はその暗号を解読できるかどうかという点だった。」

    オーディブルはシッダールタ・ムカジー『遺伝子 親密なる人類史 上巻』が今朝でおしまい。史上初の科学者による自主規制(遺伝子組み換え技術の研究に関して)を定めたアシロマ会議など、メモりたいネタがいくつもあるんだけど、時間がないので後日にまとめる予定。ムカジーさんはバランスのよい知性と巧みな話術が魅力で、ホントにすぐれたノンフィクションの書き手だ。マジ、リスペクト。

  • 遺伝子の織り成す壮大な進化のドラマと、遺伝子を取り巻く研究者をはじめとした人間のドラマに圧倒される。今、下巻を読んでいるところだけど、面白い。ともすれば退屈になりがちな専門的な実験、研究の記述で本への集中がとぎれかけると、そこに研究者たちの泥臭い、ときに血なまぐささすら感じさせる確執のドラマが織り込まれて、注意を惹きつけてくれる。
     進化進化論で有名なダーウィンと、優生学の始祖たるゴールトンがいとこ同士だったというのは聞いたことがあった。ただ優秀ないとこに対して、自分だってそれに匹敵する研究業績が残せるはずだという自負や気負いが、歴史に大きな負の遺産を残すとなると、そこには個人のネガティブな感情の怖さを感じさせる。まぁ優生学って、ナチスだけじゃなく、ヨーロッパ、アメリカも席巻した思想だから、ゴールトンが言わなくてもいずれ出たんだろうけどさ。

     遺伝子をとりまく世界は、優生学や断種法、ルイシェンコ主義のような暗澹たる愚かさ、ゲノム研究をめぐる熾烈な競争などに慄然とする一方で、メンデルのような生物に対する真摯な姿勢、ドブシャンスキーのいう多様性が自然の基本など、明るい方向へ目を向けてくれる思想もある。

     中身が濃いね。

     下巻もじっくり読んでいこう。

  • 日経新聞の記事によると国立科学博物館館長 篠田謙一氏の愛読書の一つ。遺伝子が解明されるまでの歴史を振り返る。特に二重らせん構造の発見に至る過程の描写(科学者同士の確執、駆け引き)が小説のようで引き込まれた。

  • ふむ

  • ジレンマなんだろうな。法に基づく合法的な結婚がしたい。好きな人と結ばれたい。ただ、純粋にひかれあうことは狂気を生むことが多い。感情的にも肉体的にも遺伝的にも。あんまり本能的なのは危険だ。倫理論理哲学言葉思考。皮肉なことにこれがお守りになってしまう。きっとそれが僕の神なんだろう。

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著者プロフィール

シッダールタ・ムカジー(Siddhartha Mukherjee)
がん専門の内科医、研究者。著書は本書のほかに『病の皇帝「がん」に挑む——人類4000年の苦闘』(田中文訳、早川書房)がある。同書は2011年にピュリツァー賞一般ノンフィクション部門を受賞。
コロンビア大学助教授(医学)で、同メディカルセンターにがん専門内科医として勤務している。
ローズ奨学金を得て、スタンフォード大学、オックスフォード大学、ハーバード・メディカルスクールを卒業・修了。
『ネイチャー』『Cell』『The New England Journal of Medicine』『ニューヨーク・タイムズ』などに論文や記事を発表している。
2015年にはケン・バーンズと協力して、がんのこれまでの歴史と将来の見通しをテーマに、アメリカPBSで全3回6時間にわたるドキュメンタリーを制作した。
ムカジーの研究はがんと幹細胞に関するもので、彼の研究室は幹細胞研究の新局面を開く発見(骨や軟骨を形成する幹細胞の分離など)で知られている。
ニューヨークで妻と2人の娘とともに暮らしている。

「2018年 『不確かな医学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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