1986年に起こった東京都中野区中野冨士見中学校の男子生徒のいじめによる自殺事件。
当時、周囲(クラスメイト)は事件の背景について固く口を閉ざしていたようですが、それから8年後、裁判の判決を迎え、取材に応じてくれた当時のクラスメイト、同期生。
人一人が自殺したことによる、周囲への影響はとてつもなく大きなものだったのだと感じました。
自分が声をかけていれば、何かが変わったのではないか、と自分を責め、その時は何も考えず、傍観していた自分も、間接的に自殺に追い込んだのではないか、と悩み続け、その個人個人のその後の人生観、生き方すら変えてしまった。
8年後だからこそ、当時のことを客観的に振り返り、分析することもできる。
当時、全国でこのような校内暴力事件、いじめが起こっていたそうで、毎日そのような環境に置かれた子どもたちは、感覚が徐々に麻痺していったようです。
はじめは間違っている、嫌だ、と思っていても、毎日繰り返し目にすることで、非常が日常に変わっていき、危機感が薄れていくのだと思いました。
生徒も、学校の友だちや教師で信頼できる人が周りにいなかった、常に相手の顔色をうかがったり、狙われないよう、外されないよう周りに調子を合わせて、と安心できる場所ではなかったようです。
同級生8名、クラス外の同期生2名、クラスメイトの保護者からの証言を集めています。
亡くなった鹿川裕史君の亡くなるまでの足取りを追った風景の写真が当時の様子を想像させ、胸が苦しくなりました。
最後に大学の先生と著者との対談で、個性を尊重する『個の確立』がない社会だから日本的なこのようないじめの発生がある、体罰や場当たり的な押さえつけでは、この問題は解決しない、とありました。
確かにそうかも知れません。学歴が左右する社会で教師にも生徒にも許容するゆとりがない、と。
こういったところからその後、ゆとり教育が取り込まれるようになったのかも。
それも失敗といわれていますが。
これ、といった正解のない、マニュアルでは解決しない教育、心の育成への取り組み、しかし、時代は少しずつ変化していてそれに対応していけるのか、学校、家庭だけでは解決できないだろうことは、分かりました。地域的な、社会全体での幼少時代からの育みも必要なのかな、と思います。
対話することの大切さ。くすぶる感情を信頼できる誰かに素直にぶつけたり、安心して腹を割って話し合ったりできる環境が子どもには必要なのだと感じました。