都市の論理 第一部 歴史的条件 (講談社文庫) [Kindle]

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  • 学生の頃、随分ともてはやされた羽仁五郎の『都市の論理』(1968年発行)について、その頃はほとんどわからなかったが、再度読み返してみるとマダラ模様に理解ができるようになった。
    前書きが「都市の空気は人を自由にする。ヨォロッパのルネサンスに生まれたこの言葉には、歴史があり、未来がある」とある。羽仁五郎は、ルネサンスのフィレンチェが好きなようだ。ピーターホール の『都市と文明 Ⅰ』の第3章フィレンチェの読書会に参加したので、理解が深まった。
    1966年の精神神経学会の地域精神医学の分科会での特別講演『日本におけるコンミュニティの概念について』からはじまる。武谷三男がコメンテイターとなっている。
    読んでいると実に繰り返しが多い。酔っ払いのおじさんがくどくど話しているようだ。それも、アジテーション風であるので、読んでいる方は、どうも白々しくなってくる。
    精神神経学会に最初からケンカを売って、ハイテンションなのだ。羽仁五郎はいう「地域社会とかコンミュニティという概念は、全然学問ではない」と言い「地域社会というものが実在するんですか。コンミュニティの訳語だから、外国にあるものなら、日本にもあってよいというようなことですか」
    最初から、酔っ払いのように、主催者に絡むのである。1960年代は、随分と横暴なことを言っても許されていた。続けて言う「公団住宅ですね。道路を作らないで、公団住宅をこしらえておいて、それから道路の専門家を呼んできて、道路を考えてくれと言われても、どうにもならないですよ」とおっしゃる。さらに、「地域社会とよく似た概念に、地方自治というのがあります。ぼくはあらゆる機会に、地方自治なんていう概念は、おおよそ概念ではないと批判してきた」という。
    「地方自治という概念」は、地方という概念(権力側の概念)と自治という概念(住民側と自由の概念)の相反する概念を結びつけているという。それはよく晴れていて、雨が降っていると同じだという。
    それで羽仁五郎は、「地域社会ではなく、自治体という概念」を使うべきだという。この話が様々な話題を組み立てて、繰り返し言われ続ける。
    「平等の目的、事実関係の認識、原因の解明、そこから学問が生まれ、概念が構成され、言葉が発達する」という。
    都市には、アゴラと呼ばれた市民の集会する広場がいるという。議会がそこにあったアゴラこそが古代ギリシャ都市自治体の中心だった。日本には、自治体の伝統がない。ただし16世紀の堺市は、自治体と言えた。イエズイト教会の宣教師が「堺を日本のヴェネチア」とよんだ。戦争があっても市民の平和な生活がある。近代の日本の自治は、財政的な問題より3割自治しかないのが問題だと指摘する。民主主義の財政は、市町村優先主義を建前とすべきだという。
    次に、エンゲルスの「家族、私有財産、国家の起源」の説明に入っていく。
    一夫一婦制というのは、女の方からいうことであって、絶対に男の方から言われておることではないとエンゲルスは言っている。家族の成立というのは、最初の階級対立である。最初の階級圧迫は男性による女性の圧迫と一致する。商品生産の発生及び私有財産の発生に伴って人間をまず奴隷にする。人間性が奪われている状態からいかにして解放されるかが主点となる。
    資本に収奪されている労働者や農民からの革命を考えず、国家から都市の自治権を奪回せよととく。
    アテネ、ローマなどの古代都市の隆盛と崩壊、フィレンチェ、ヴェネツィア時代の自由都市の勃興。
    自由都市で実現した家族からの解放、農村からの解放が、フランス革命によって全国的規模で市民に及んだ。
    羽仁五郎は、自治体至上主義におちいり、「自治体ユートピア」になっていると島恭彦の指摘もうなづける。生まれ故郷群馬県桐生市がフィレンチェににているというのも可愛い。
    精神障害者、私生児などへの知見は、その時代の指摘としては先見性があったというべきか。

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