暇と退屈の倫理学(新潮文庫) [Kindle]

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  • 今の人類の祖先は、約400万年前から地球に住んでいたという。人類が定住生活を始めたのは、約1万年前。人類史的に見れば、移動生活から定住生活に移行したのは、「ついこの前」のことであり、我々が日頃「歴史」と認識しているのは、少なくともそれ以降の記録である。
    定住生活をはじめたことで、人類に「退屈」という概念が生まれた、ということがまず語られるのだが、このあたりの説明が実に論理的だ。ことさら哲学の用語を振りかざすことなく、しかし明快な論理で、「退屈」という一見つかみどころのないものを明らかにしていく過程は、読んでいて快い。

    定住生活への移行という人類史上の大きな契機は、「人間」という概念をドラスティックに変えてしまったことは疑う余地がない。
    「所有」という概念が生まれ、貴賤の格差も生まれた。やがてこのことは、奴隷の誕生へもつながるし、現在まで続く様々なヒエラルキーは、あまねく定住生活への移行をルーツとしていることがわかる。そして、支配する者とされる者は対立し、当然、争いも生まれる。その結果、法体系が整備されてゆく。人類の雄大な歴史をドキュメンタリーでも見ているような気になる。
    消費と浪費の関係も面白い。ややもするとネガティブなイメージの「浪費」は、むしろ本書では積極的にではないにせよ、まだいいとされる。問題は消費である。消費される対象は、「物」ではない点がポイントだ。ゆえに消費は、とどまることをしない。詳しくは本書に委ねるが、思わず膝を打つ。
    これまで消費する側が主動すると思っていた経済も、結局供給する側が駆動していたことがわかる。資本主義は、絶えず消費者の意欲によって揺れ動く市場の中での闘争としてしばしば説明される。だが、消費行動が供給者側のイニシアティブで駆動するのだとしたら、資本主義はただただ巨大化していくことも理解できる。

    後半は、ハイデッガーの「退屈論」を軸に、基本的にはそれを批判的に論じながら話が進む。一方通行、あるいは一本道を進むような単調さはなく、そこに多くの哲学者の議論を参照し、多角的な論考が試みられる。前半よりは哲学的であり、ゆえに衒学的でもあるが、それゆえにこの議論を後半にしたのはよかった。
    論理的な議論に十分慣らされたうえで読むことで、理解は進むだろう。時には「ハラキリ」なども登場するが、前半よりもさらに概念的なパートであることは間違いない。だが、同時に、この部分が本書<暇と退屈の倫理学>の真髄でもあると思う。
    人類は、有史以来「退屈」を抱え、それをどう乗り越えるかという命題を抱えてきた。定住化したことで「余裕」が生まれ、しかし余裕が「退屈」をもたらした。退屈とどう向き合い、折り合いをつけるのか? これが歴史の上で、人間に与えられた究極のテーゼのような気がしてきた。
    読めば読むほど、人間は矛盾を内包しているが、その矛盾を乗り越えるために「考える」こともまた人間が暇を持て余し、退屈のあまりしたことにも思われる。そうした、日頃霧の向こう側におぼろげに見える事象を明らかにするのが、哲学なのではないだろうか。その意味で、本書には多くの宝が詰め込まれており、さながら玉手箱と言えよう。

  • 多くの人にとって避けては通れない、「暇と退屈の問題への取り組みの記録」として興された著作。多くの哲学者の言葉を参照しながらも読み手に専門性を要求するではなく、「自分で考えようという気持ちさえもっていれば、最後まできちんと読み通せる本として書かれている」ものとして企図されている。全体は500ページ近くあるが、巻末に60ページほどある手厚い注釈はよほど興味がある読者以外はさしあたって読み飛ばすことを著者自身が推奨している。増補新版のためのまえがき、付録、文庫版あとがきも付属する。

    第一章ではパスカルがあげる狩りの例などをもとに、退屈のなかにある人間がなにを欲望するかを検証する。「ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である」、だからそれが人間にとっての不幸であっても構わないという分析には、この時点ですでに退屈の問題がはらむ危険性を窺わせる。

    第二章から四章までは「歴史的な見地から暇と退屈の問題を扱う」としているとおり、ここでは哲学よりも社会学的な視座からの考察に重点が置かれる。なかでも第二章にある、定住生活への移行によってそれまで発揮されていた能力の行き場がなくなったことが人間が退屈することになった原因だという仮説が重要で、現代に生きるほとんどの人々にとって退屈は不可避だという前提が決まる。また、第四章で対照的に比較されるルソーとホッブズによる人間観は明解で、個人的にもルソーによる主張のほうに共感できる。なお、ここでルソーが提起した抽象的な存在である「自然人」は、最終章でも重要な概念として再登場する。ルソーの主張と並んで、マルクスが述べたという、「自由の王国」の条件の具体性も面白い。

    第五章から七章までは「哲学的に暇と退屈の問題を扱う」として、主にハイデッガーの退屈論をめぐる論考となっている。この最後の三章の構成としては、ハイデッガーの主張に対する「テーゼ」「アンチテーゼ」「ジンテーゼ」が各章に対応しており、弁証法的に議論を発展させていく形をとる。この三章で何度も引き合いに出されるのがハイデッガーによる「退屈の三つの形式」であり、とりわけ著者による「退屈の第三形式」に対する批判的な捉え方がポイントだろう。そのうえで、ハイデッガーによって顧みられなかった「退屈の第二形式」の重要性が掘り下げられ、本書の結論を導くカギとなっている。同時に、ハイデッガー(ならびにヘーゲル、コジェーヴ)が同様に重視した「退屈の第三形式」が「テロリストに憧れる人びとの欲望を煽る」ような危険な思考であるという警鐘も印象的であり、「退屈の反対は不幸でありうる」といった第一章の定義にもつながる。

    これまでの全章を受けたうえで、「結論」の約20ページで本書としての三つの結論をきちんと提示したうえで締めくくる。そのため時間短縮のために結論だけを読んでも本書による主張を得ることができるということもできるが、それまでの本文がなければ余り読み手の腹に落ちることはない気がする。ちなみに結論の一部はエピグラフに結びついており、「勉強をする」という行為を積極的に評価してくれる内容にもなっているため、「なぜ勉強しなくてはいけないのか?」という問いをもつ読者にもお薦めすることができる。また、消費社会において奴隷にならないためにはどうあるべきかという問題提起とそれへの回答も興味深く、昨年読んだ『武器としての「資本論」』と通じるものを読み取ることができた。

    巻末に収められた「付録 傷と運命」では補足として、「なぜ人は退屈するのか?」という問いに取り組む。"サリエンシー"という精神医学的な概念と、ルソーによる"自然人"によって説明される、人間の運命(生きている限り必ず傷を負う)と本性(退屈を感じない)の違いに納得することができた。加えて、人間が傷を負うものであるという観点から示唆される、人間が他者を求める理由についても同様である。

    著者が冒頭で宣言するとおり、通読することで「退屈」の問題と向きあう機会を与えてくれる著書だった。本書は読んだからといって即座に退屈を解消できるような結論を教えてくれる類いのものではない。(もし、そのような教えがあるとすれば、まさに本書で著者が批判の対象としている「退屈の第三形式」の解消にあたるだろう。)それを了解したうえで退屈の問題を改めて考えてみたいという方には、手に取ってほしいと思える。著名な哲学者の考えの一端に、無理なく少しずつ触れられる点にも好感をもてる。質・量ともに満足のいく著作だった。

  • 考える土台にしなければならない、読んで満足、というのは國分さんも求めてないんやと思います。
    退屈かあ暇かあ、そうかあ

  • とっつき辛い「倫理学」が「暇と退屈」を連れてきた結果…大ボリュームながら"駆動力"を感じた良著でした。読み進めさせる力だけではなく、まだ序盤を読んだだけだったのに会社の飲み会で「人間、暇には耐えられないんだよ」というしょーもない話をしてしまうくらいには(笑
    哲学書ながら軽妙な語り口で、ちょいちょい毒も吐く(カッコ書きで(こういうところがラッセルという哲学者の限界である)とかw)。全ての読者を、何とかゴールまで引っ張っていこうという強い意思を感じました。

    さて本著、素晴らしい先行レビューが多く存在する中で、自分が一定の分量内で書くコトとしては以下2点かなと思いました。
    ①日々、「暇と退屈」に対峙している自覚
    ②「楽しむための訓練」=匠の目を養う

    ①日々、「暇と退屈」に対峙している自覚
    朝から晩までただ予定埋めてりゃ良いって訳じゃないぞ、というのを感じたのは、ハイデガーの退屈の第二形式。
    コレを言い始めると、顧客の前でプレゼン本番!って最中でも空虚さや退屈さを感じるコトもある訳で。形だけ予定埋めるんじゃなくて、その予定の中でも自分なりの充足感を得る必要がある…人間ってのは本当に厄介な生き物ですね。

    ②「楽しむための訓練」=匠の目を養う
    著者は結論で、「ハイデッガーが退屈したのは、(略)物を楽しむことができなかったから」「それらを楽しむための訓練を受けていなかったから」と断じます。
    ↑で「自分なりの充足感を得る」とも書きましたが、そのためにも訓練が必要な訳です。
    その訓練は、きっと日本的な「匠の目」で、器の形を何かになぞらえて面白がったりするコトなんだろうなと。
    高杉晋作の辞世の句じゃないですが、何かを面白がるための意思や努力はあっても良いのではないかと思います。

    本著、ボリュームもあって長い読書の旅はそれなりに楽しく過ごせるものの、読み終わってみると「…で、自分は、何が変わる?」っていう感覚を抱きがちなので、まずは上の2点を意識していこうかなと思いました。

    (実は、書き貯めた読書メモをうっかり消しちゃったんですが…(笑)

  • 必要十分なモノが手に入ると人は暇になる
    消費は物を受け取らない、記号、概念を受け取る だから限界がなく、永遠に続く、満足に辿り着くことはない
    環世界、人間同士、動物などは、それぞれ時間、感覚の異なる世界に住んでいる

    など、言葉にされるとハッとする内容がありいろいろ考えるきっかけになった

  • 倫理学3冊目

    人類が定住生活を始めたことで、それ以前の遊動生活では必須だった探索能力の使い道がなくなり「退屈」が生まれた、という箇所をとても面白く読みました。
    教科書には遊動生活より定住生活の方が格上のように記載されていますが、人類は別に格上を目指して定住生活を始めたのではなく、自然環境の変化により遊動生活ができなくなった為やむなく定住しただけだそう。
    参考文献は『ホモ・ルーデンス』とのこと、トライしてみたいです。

    一方で「消費」と「浪費」の違いを今ひとつ腹落ちできず。
    自分がどっぷり「消費」に浸かっているから実感を持って理解できないのかもしれないです。
    時間のある時にじっくり再読したいです。

  • 人はパンがなければ生きられない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることは、バラで飾られねばならない。

  • 前半はいろいろな人が紹介され、各々考え方の違いを説明せれており、なかなか難しいのですが、後半はわかりやすくなんとか読了できました。暇と退屈という命題に真剣に取り組んでいる人たちがいたことに驚き、今後は今までとは違う暇と退屈との付き合い方ができるような気がします。

  • ■読んだ動機
    本屋さんなどで話題となっているというのを目にして手に取った。

    ■感想
    初めのうちは面白かったが、後半は興味の持てない話で途中で読むのをやめてしまいました。。

    この本の内容のうち、
    やることがたくさんあり、それらを解消したら望む世界が手に入ると思って、活動しているときが幸せで。
    課題が解消された世界で生きていると、やることがなくて退屈で幸せを感じられないという話は興味深かった。

    その後、生活が豊かになり「やる必要があること」がなくなった世界では、何をすると幸せを感じやすいかという話が始まる。
    結論は、熱中できるものを見つけるといいということだった。
    その「熱中」も資本主義によって作り出されたものだったり、ホントは求めていないもののことが多いので気をつけようねという話も書かれていて、面白かった。

    ■以下気になった箇所のメモ
    20世紀の初頭のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられてきていた。これから若者たちが苦労して作り上げなければならない新世界など存在しない。
    したがって、若者たちにはあまりやることがない。
    だから、彼らは不幸である。
    それに対して東洋諸国は新し社会わ、作っていかねばならないから、若者たちは立ち上がって努力すべき課題が残されている。だからそこでは若者たちは幸福である。

    人は努力によって社会がよりよく、豊かになると、やることがなくなって不幸になる。

    豊かな社会、すなわち余裕のある社会では、人々は獲得した余裕を「好きなこと」のために使う。
    しかしその好きなことは、願いつつも叶わなかったことではない。

    暇の中でいかに生きるべきか。
    退屈とどう向き合うべきか、という問いに向き合う。
    モリスの答えはこうだ。「自由と暇を得た時に大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ」

    人はパンがなければ生きていけない。
    しかし、パンだけで生きるべきでもない。
    私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

    1章
    欲望の対象 と 欲望の原因
    うさぎを欲しいというのは、欲望の対象。
    だが実際に欲しいのは退屈を紛らわせる騒ぎである。つまり、ウサギ狩りにおけるウサギは欲望の対象ではない。
    しかし、多くの人はウサギこそが欲望の対象と勘違いする。

    つまり気晴らしの対象はなんでもいいのだが、「熱中できること」という条件はある。
    熱中できなければ、気晴らしの対象が手に入れば自分が幸せになれると「思い込んでいる事実」に思い至ってしまう。

    熱中できるためには、負の要素(負荷)がなければならない。つまり、退屈する人間は苦しみや負荷を求める。

    ラッセル曰く
    退屈とは「事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの」である。
    ここでいう「事件」とは、今日を昨日から区別してくれるもののこと。
    人は毎日同じことが繰り返されることに耐えられない。
    退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。

    幸福な人とは、楽しみ・快楽をすでに得ている人ではなく、楽しみ・ないらしい。求めることができる人である

  • ・趣味:どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方
    ・気晴らし
    ・不幸への憧れを作り出す幸福論は間違っている
    ・定住革命
    ・私たちが日常の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ
    ・環世界、環世界移動能力
    ・1/18秒
    ・教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた
    ・記憶とは傷跡であり、絶えずサリエンシーに慣れようとしながら生きている我々は傷だらけである。
    ・運命と本性

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科准教授

「2020年 『責任の生成 中動態と当事者研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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