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感想・レビュー・書評
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東畑さんが臨床心理を制度内外の視点(臨床人類学など含め)から問い直されているのは、自分が教育なり芸術についてしていることに非常に親和性があると思った。何をもって「教育」「芸術」というのか、またそれらをどう価値として社会に示すのか。もっと考えないといけないなと、本著を読みながら自分の探索の浅はかさや、研究の不十分さを痛感した。また、自分がここでしていることは、教育なのか、芸術なのか、よくわからないし、非常にブリコラージュ的なので、いまいち自信がもてないのだが、それでもそこで何かが起きている。そのことの価値を、自分なりの言語で、ちゃんとした言語で価値化していかないと。東畑さんは「ふつうの相談」という言葉で、自身の臨床を肯定することをしているのだと思う。なんというか、自身がやってしまっている臨床、その技法が、先行する正当的な技法にのっとっていなくても、だからといって卑下する必要はないのだと思う。要は捉え方、視点の話。今の自分は、自分のやっていることをメタに捉え、それを十全に肯定しきる視点を持ち得ていないのだと思う。もっと努力したい、精進したい。自分のやっているのは、臨床ではあるが、臨床心理とはまるで違う。その営みをどう記述し、整理するか、どう教育やアートの言語でそれを書くのか、そこが問われている。
以下引用
ふつうの相談、それは心理療法の教科書や専門書には書かれていないけど、誰もが本当は実践している相談のことだ。日々の臨床に溢れているのに、名前を与えられることもあく、その価値を見過ごされてきた対人援助のこと。
学派には一貫した心理学理論があり、そしてそれを習得するための訓練システムがある、その思想と体系をインストールすれば、資格とメンバーシップが与えられる
現場での事情に応じて、エッセンスだけをつまみぐいする合金の心理療法が肯定的に示される
(これで言うと、自分は合金の臨床教育をしているんだろうな。合金のホリスティック教育。その中の対話の要素に、気づき、OD、ナラティヴAPなどがある)
ふつうの相談には学派的規範には逸脱し、専門性を極限まで薄めたようなある種の素人性が刻印されている
学派的心理療法を実践しやすい開業臨床でも、半数以上のケースはふつうの相談として行われているし、デイケアなどの施設臨床となれば、圧倒的多数の臨床業務が普通の相談である
開業臨床には、精神分析的心理療法と、ふつうの相談という大きくわけてふたつのオプションがある。クライエントに応じて、そのどちらかを選択し、援助を提供するのが私の日々の仕事
心の臨床には、一枚のカードの罠に陥りやすいところがある。一病気一治療の罠が潜在している。
たとえ幼少期から続く心理的な問題が存在していたとしても、すべての人についてじっくりと考えたかということ、そういうわけではない。クライエントが目の前の解決だけを求めている場合には、ひとまずはふつうの相談での対応を行い、そのまま終結する
→これをやろうとしてしまうところがあるなぁと。反省。事前の契約、目標の調整、設定をもっと大事にしよう。説明モデルの徹底。
★クライエントが何を望んでいるかを明確にし、その求めに応じるのが基本的な姿勢。何を目指すのか、これを合意できるまで議論し、交渉する、その作業自体が治療的である
アセスメントの結果として、多くのケースがふつうの相談での対応になる。(開業臨床において)
語ることに耳を傾け、その背景にあるメカニズムを理解しようとする。
ふつうの相談では、臨床家が理解したことをきちんと説明することが多い。それは解釈的な介入ではなく、心理教育に近い。クライエントの心の状態やメカニズムをわかりやすく説明する。説明されるのは心だけじゃない。クライエントの周囲の人や環境についても説明する。暴力は暴力と名指す。苦悩のメカニズムを明確にし、自己理解を促進する。そのうえで今後の見通しや今必要なことについてアドバイスをおこなう
経験談は有効。似たような境遇のクライエンとに対し、どのように事態を切り抜けていったかを語ることもあれば、私自身が過去に助かった例を出すこともある。
説明とアドバイスがセットとなっていること。現状を説明し、その背景にあるメカニズムを理解してもらったうえで、どうしたらいいかを提案するから、やってみようかなと思え、心に希望が兆す
アドバイスは自然にすればよい
★最始に提供されるべきは、正しい情報や知識であり、問題の知的整理である。ふつうの相談が始まるとき、クライエントは混乱している。何が問題であるのかがわからな、何がどのように変化すればいいのかわからなくなっている。現在地を見失い、方角を喪失している。このとき問題の所在がどこにある、どう変化するとよくて、それは何によって可能になるのかが知的に整理され、言語的に納得できることの価値は極めて大きい。客観的状況は同じでも、主観的な風景が変化する。
ふつうの相談、一人ではやり過ごせなくなり、自己破壊的になった時間を、共にもちこたえる、これが時間の治癒力を発言させる。そのために環境調整がある、問題の知的整理があり、情緒的サポートがある。
時間が心の中のものを配慮し直す。ここに物語や洞察が生み出される。
→この意味では、「やろうとしていない」というところがあったのかな。「何を求めて、何を目標とするのか
」を曖昧にしたままはじめたのが、よくなかった
ふつうの相談は、素人的な対応が取り入れられてはいても、営みとしては、専門的なサービス。専門的なアセスメントのあとに、それをやっている(セラピーからの逸脱を意図してそれを行っている)
(これでいうと、あそこはああしないと停滞してしまったし、問題解決にならなかった。つまり、アセスメントの結果、あれをするのが必要だと判断した。で、よくなかったのは、事前の同意がなかったこと。で、やりませんとなったなら、もうどうしようもなかったと思う。そもそもなんとかしようという意志がなかったわけだから。臨床心理士ならそれでも抱えるのだろうけれど、自分はやっぱりその意味で、教育者なのだと思う。あくまで創造を支えたい。それをしようという共通の同意をしていなかったのがすべて)
ふつうの相談には、ソーシャルワークや、認知行動療法、人間性心理学、精神分析などさまざあな学派の心理療法の萌芽が含まれていた。
専門職セクターや民俗セクターに問題が持ち込まれるのは、民間セクターで処理しきれなくなったとき
反精神医学や専門性のもつパターナリジムを批判し、コミュニティによる素人同士の治療の有効性を提起したし、ロジャースの非支持的心理療法やエンカウンターグループが、専門性を高める精神分析と行動療法に抗して、人間的な出会いを重視した、あるいは昨今の自助グループ、当事者研究、ダイアローグの興隆にも同様の文脈がある。メンタルヘルスケアには、素人性と専門性が対立してきた過去がある。心を扱うときは、素人性と専門性、いズレによりすぎても非人間的になる
★この喪失体験がは大きくてしばらくの間、活動は停滞し気分がふさぐ。この抑うつに耐えるため、原稿をコツコツ書くことをする。関心を外的世界から内的世界へと引き戻すのである。
→まるで自分だ。笑
専門知は、本質的に補助線である。こんがらがった把握しがたくなったものに、一本の線を書き入れる。するとそこにあったものの形が見えるようになる
民間セクターでなされる素人同士のケアは、熟知性が損なわれ、世間知が機能不全を起こすときに限界をむかえる。問題を個人症候群として定式化できなくなるときに破綻する
世間知は一枚岩ではない。
世間知の差異が、ふつうの相談を破綻させる
異なる世間を生きている人への世間知に基づいたアドバスは、他者のリアリティを否定する
→このへんがうちの仕事という気がするな。視点の切り替えというか、参照する知の出どころの違い
★世間知には規範性が刻み込まれてる。どう生きるのがよいかは、抑圧にもなる。世間知はマイノリティにとっては、排除となりやすい。有害にもなりうるのだ。
私たちは、生活の中で生じたこまりごとを、世間知を説明モデルとすることで、対応する。ここでは個人症候群のレベルで問題は取り扱われる。
臨床現場。支払い主の価値判断が規範となって、その治療における主体化は方向づけられる。学校でいえば「教育」。刑務所でいえば、矯正。デイケアでは「リハビリ」や「回復」。
それでいうと、うちは、やっぱり回復でもリハビリでもなくて、「超越」なり「教育」を規範とし、それに準じて方向づけられた場所、それに対価を支払ってもらう場所。学校に近い。何を目的としているのか、何にお金を払ってもらっているのかというところだよな。ある種、リハビリにも、停滞にも使えるわけで。癒しといっても、癒しではなくて、超越としての癒しというか。それを規範とする場所としていたいし、そこに価値や方向性を持っていたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人は独りでは生きづらいことを再確認した。