山県有朋は生涯を「一回の武辺」で「尊王志士」と自認していた。元老として、政党政治に対立する官僚政治派の領袖として畏怖された山県だが、それは政治を私的利害の衝突と見做し忌み嫌ったからであった。陸軍を権力の源泉とした山県だは、軍部と政治の癒着を嫌った。天皇の軍隊としての政治・民衆からの独立性である。その結果帷幄上奏権を確立し、後の昭和軍部の暴走を招く種を蒔いてしまったのは歴史の徒花か。
山県の元老としての権力は、実力主義で部下の話をよく聴き貢献には見合った地位を与えることで頼られた官僚領袖と共に、明治天皇との個人的信頼関係に拠っていた。しかし日露戦争後は、藩閥出身官僚から帝国大学出身の学士官僚が台頭していき、官僚政治は政党政治に適合し、同じ長州出身だが開明派の桂太郎の下に官僚は趨ったため、山県の影響力は低下した。また天皇が代替わりすると影響力も低下し、宮中某重大事件にも繋がる。
山県は総理大臣としては現実的で柔軟な政権運用や制度設計を行ったが、君主制秩序の動揺に繋がる事態には突如として大風呂敷めいた飛躍論に傾き、周囲を困らせることとなった。
山県は公開口論は苦手で、意見書といった形式を好んだため大衆には政治が見えず密室政治と非難された。