- 青空文庫 ・電子書籍
感想・レビュー・書評
-
梶井基次郎の病が悪化していた頃の作品ということもあり、作者の死に対する恐怖が主人公を通してじわじわと伝わってくる。人間関係といった面で学ぶところが多く、有名な檸檬とは違った形で、この「冬の日」という作品は人との接し方や向き合い方などを教えてくれる作品だ。
堯の弟は脊椎カリエスで死んだ。そして妹の延子も腰椎カリエスで、意思を喪った風景のなかを死んでいった。そこでは、たくさんの虫が一匹の死にかけている虫の周囲に集まって悲しんだり泣いたりしていた。
この、人が死んで悲しんでいるシーンを虫に例えていることにとても衝撃を受けた。大げさかもしれないが、今まで読んできた小説の中で一度も出会ったことがない表現だと思う。身内が2人もいなくなってしまい、自身も病気に侵されている、堯の絶望感ともう何もかもどうでもいいといったような虚無感が感じられる。この表現は、梶井基次郎だからできた表現だと私は思う。
洗面のときに吐いた痰を堯は金魚の仔でもつまむようにしてそれを土管の口へ持っていくのである。路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみな埃及(エジプト)のピラミッドのような巨大(コロッサール)な悲しみを浮かべている。
リアルでとても独特な表現がまるで自分が今ここで体験しているのではないかと感じさせられる。
冬至が過ぎた頃、友人の折田が訪ねてきた。堯は折田が自分の使った茶碗で茶を飲んでいることにだんだん気が重くなっていき「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。」と聞き、その後も折田に皮肉を言ってしまう場面がある。誰でも一度は、家族あるいは大切な友人に言い過ぎてしまったなと後悔したことがあるのではないでしょうか。でも、堯と折田のように何も遠慮せずに話せる仲だからこそ言えたことでもあります。きっと、堯にとって折田といる時間は、無意識に心地いいものであると常に感じていたのではないだろうか。人に気を遣うことはとても大切なことでもあるが、その気遣いが逆に人を傷つけてしまうこともあると教えてくれる場面でもある。何も遠慮せずに話せる友人がいることや友達に恵まれていることはとても素晴らしいことであり、そのことに感謝しなければならないと改めて感じさせてくれる作品だ。また、重い病気を患っている人の接し方の難しさなども感じられた。そういう人たちに、ネガティブな事など言えないのでよくポジティブな言葉をかけてしまうがそれが相手の気を重くさせてしまうこともあると知り難しいなと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示