知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

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  • 産業図書 (2002年6月20日発売)
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感想 : 17
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 認識論を続けて読んだが、今一つ興味が持てなかった。。。どのレイヤーの話をしているのか、すぐついていけないくなりますな。


 …伝統的に認識論は次のような二重の目標を持っていた。第一の目標として、知識の基準をたてる、つまり知識の正当化基準を明確にすること。第二の目標として、その基準に従って知識を求めていけばわれわれは心理に達することができるという具合に、その正当化基準そのものを真理の獲得という目的に照らしてメタ正当化すること。第Ⅰ部では、このうち知識の基準をめぐる議論をたどってみた。信念の正当化が全体としてどんな構造になっているかを考えると、われわれは遡行問題という厄介な問題に直面してしまう。この問題に対する二つの解答パターンとしては、内在主義的な解決と外在主義的な解決とがある。ところが、どうも内在主義的な解決策はうまくいきそうもない。そこで私は、ドレツキの情報論的な知識の理論を実例にとって、知識をもつためにわれわれは正当化を心に抱いている必要はないという外在主義的な立場をとことん突き詰めていくとどうなるかを追跡した。その結果、第Ⅰ部で本書がたどり着いた立場が、「ラディカルな外在主義」である。つまり、正当化は知識の構成要件ではないのではないか、そして、知識の問題は認識者を自然界の中に置いて、知識を自然現象の一種として捉えるような視点でアプローチすべきではないかという考え方だ。こうして、知識とは何か、そもそも知識に正当化が必要か、知識の哲学が考えるべき問いは何かということまでが根本的に再考を迫られることがわかった。
 だとすると、なんでまた、正当化とくに知識全体の基礎づけの問題が知識の哲学の最も重要な問いだとされ、そしてその問いがよりによって認識者の心の中を探ることによって内在主義的に答えられなくてはいけないと考えられてしまったんだろうということが逆にとても不思議に思えてくる。これが第Ⅰ部の残した問いだ。第Ⅱ部ではこの問いに答えることを目指した。その答えを一言で言えば、伝統的な知識の哲学が内在主義的で基礎づけ主義的になってしまったのは、「知識なんて本当はないんだぞ」と主張する懐疑論に対して「やっぱり知識は可能なんだ、よかったよかた」ということを示そうとする際に、根本的に方針を間違えたからだ。知識の哲学はずっと、懐疑論との対決という課題に動機づけられてきた。懐疑論は、たとえば、われわれには自分が培養槽の中の脳であるかどうかが知りえないということ、自分がいま超リアルな夢を見ているのではないということはわからないということ、あるいはわれわれがしょっちゅう見間違い、聞き間違いをすることなどからスタートして、だからおよそ知識というのはありえないのだと結論する。
 これに対して、哲学者はまず、「そんなことはない。われわれはこのことは確実に知っていて、間違えるということはない」と言えるような確実で不可謬な知識を見つけてきて、その確実な知識に基づいて他の「知識」とされているものを正当化するという路線をとった。…この路線をとった哲学者の代表としてデカルトを取りあげて、その議論が懐疑論への対抗論証として成功しているかどうかを検討した。懐疑を免れているような確実な知識を探し求めるとき、デカルトが目をつけたのが心の中だった。なぜなら、外界の事物についての知識は懐疑論者の格好の餌食だからだ。何が信用おけないと言って、心の外にある事物についての信念ほど信用できないものがあるだろうか。見間違い、錯覚なんて日常茶飯事だ。培養槽中の脳は、自分が椅子に座って本を読んでいると間違って思わされている。でも自分がそう思っているということは確実に正しいのではないか。こうして、心の中の領域に確実な知識を見つけて、それをもとに他の知識を正当化していく。このようなやり方によって、いったん懐疑にさらされた知識が信頼に値することを示し、懐疑論に対抗しようという、内在主義的で基礎づけ主義的な知識の哲学がスタートした。しかしながら、デカルトの議論は懐疑論の論駁としてはどうやら失敗だったと評価せざるをえない。
 …
 このように、心の中からの基礎づけ路線というのはどうもダメそうだよ、というヒュームの警告があったにもかかわらず、哲学のムーブメントというものは、いったん弾みがつくとなかなか止まらない。内在主義的な基礎づけ主義の傾向は二十世紀の半ばまで続いてしまった。とても乱暴な言い方だけど、近代の哲学と現代の哲学の少なくとも半分は哲学的懐疑論への間違った対抗戦略が生み出したとんでもない一大伽藍だと言ってもよいかもしれない。しかしながら、…そもそも懐疑論は、「もしかしたら思った通りではないかもしれない」というちょっとした疑いを、知識の不可能性という全面的な懐疑へと水増しするための議論パターンだった。これに対抗する正しいやり方は、確実な知識を見つけてくることではなく、日常的で健全な「疑い」を知識の不可能性へと膨らませる論証の筋道のどこがおかしいかというものでなくてはならないはずだ。これが、「屁理屈には屁理屈で」という路線だ。…
 というわけで、…われわれの知識が全体として信頼に足る確実なものであることを基礎づけ主義的に明らかにすることで懐疑論に抵抗するという課題を放棄しよう、というのが本書のここまでの結論だ。

 …新しい認識論はこうした問いの立て方をとらない。知識は或る条件を満たした信念の一種ではないと考えるからだ。むしろ事態は逆で、信念の方を、知識の様々な実現の仕方の一つだと位置づけなければならない。

 …そこで新しい認識論は、自然言語や人工言語といった外部表象が、なぜ認知活動で用いることができ、そしてそれが真になるようにつとめることが、なぜ人間の認知活動の本来の目的(それは真理ではないかもしれない)に照らして有用であるかを説明しなくてはならない。つまり、言語的表象とその真理がもつ道具的価値を説明するという課題が新しく生じてくる、というわけだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 本・雑誌
感想投稿日 : 2020年5月4日
読了日 : 2020年5月8日
本棚登録日 : 2018年10月8日

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