情念論 (岩波文庫 青 613-5)

  • 岩波書店 (2008年1月16日発売)
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高邁とは何か
【自ら最善と判断することを実行する確固とした決意と、この自由意志のみが真に自己に属しており、正当な賞賛・非難の理由であるとの認識が、自己を重視するようにさせる真の高邁の情念を感じさせる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】

「かくして、人間が正当になしうる限りの極点にまで自己を重視するようにさせる真の高邁とは、ただ次の二つにおいて成り立つ、とわたしは思う。一つは、上述の自由な意志決定のほかには真に自己に属しているものは何もないこと、しかもこの自由意志の善用・悪用のほかには正当な賞賛または非難の理由は何もないのを認識すること。もう一つは、みずから最善と判断するすべてを企て実行するために、自由意志を善く用いる、すなわち、意志をけっして捨てまい、という確固不変の決意を、自分自身のうちに感得すること。これは、完全に徳に従うことだ。」

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ルネ・デカルト
感想投稿日 : 2022年1月8日
読了日 : 2022年1月8日
本棚登録日 : 2022年1月8日

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コメント 4件

命題集 未来のための哲学講座さんのコメント
2022/01/08

自由意志
【わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、これだけが、自分を重視する唯一の正しい理由である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】

 「そして、知恵の主要な部分の一つは、どんなやり方、どんな理由で、各人が自分を重視または軽視すべきかを知ることであるから、ここでそれについてわたしの意見を述べてみたい。わたしは、自分を重視する正しい理由となりうるものを、わたしたちのうちにただ一つしか認めない。すなわち、わたしたちの自由意志の行使、わたしたちの意志に対して持つ支配である。というのも、わたしたちが正当に賞賛または非難されうるのは、ただ、この自由意志に依拠する行動だけであり、また、わたしたちはこの自由意志の与える権利を臆病のせいで失わない限り、自由意志はわたしたちを自身の主人たらしめ、そうしてわたしたちをある意味で神に似たものとするからである。」

命題集 未来のための哲学講座さんのコメント
2022/01/08

情念が経験される知的な喜び
【私たちが、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足を、つねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ精神は、みずからの完全性を認識させられ、その混乱は精神の喜びを増す。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 私たちが精神の内奥で、自分が最善と判断したすべてを実行したことによる満足をつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱とそれに伴う情念のいかに激しい衝撃も、精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。なぜなら、不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえるのと同じように、共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れる喜びが、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼしているからである。精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識させられ、かえって、その混乱は精神の喜びを増すのに役だつであろう。
 不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、さまざまな情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、わたしたちは、知的な喜びともいえる快感をおぼえる。
 「これら内的情動が、それとは異なっているが共存している情念たちよりも、いっそう近接的にわたしたちに触れ、したがって、はるかに大きな力をわたしたちに及ぼすものであるからには、次のことは確かである。つまり、わたしたちの精神が内奥にみずから満足するものをつねに持ってさえいれば、よそから来るいっさいの混乱は、精神を損なう力を少しももたない。むしろ、精神はそれらの混乱に損なわれることのないのを見て、みずからの完全性を認識できるようにさせられるので、これらの混乱はかえって、精神の喜びを増すのに役だつ。そして、わたしたちの精神がこのように満足するものをもつためには、ていねいに徳に従いさえすればよいのだ。というのも、自分が最善と判断したすべてを実行すること(徳に従う、とわたしが言うのは、このことだ)において、欠けることがあったと良心にとがめられないように生きてきた人は誰も、そのことからある満足を感得する。この満足は、その人を幸福にするきわめて強い力を持つので、情念のいかに激しい衝撃も、彼の精神の安らかさを乱す力を持つことはけっしてない。」

命題集 未来のための哲学講座さんのコメント
2022/01/08

永遠の決定と自由意志
【永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))】

「ゆえに、わたしたちの外部に偶然的運があって、その意向のままに、事物を起こさせたり起こさせなかったりしている、という通俗的意見を、まったく捨て去らねばならないし、そして次のことを知らねばならない。すべてが神の摂理に導かれている。その摂理の永遠の決定は、不可謬かつ不変なので、その決定がわたしたちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、わたしたちに必然的、いわば運命的でないものは何も起こらない、と考えねばならない。したがって、わたしたちはそれと別様に起こるように欲すれば、必ず誤る。以上のことを知らなければならない。しかし、わたしたちの欲望の大部分は、まったくわたしたちだけに依存するのでもなければ、まったく他に依存するのでもない、そうした事物にまで及んでいるから、これらのものにおいて、わたしたちにのみ依存する部分を正確に区別すべきである。この部分以上にわたしたちの欲望が広がらないようにするためだ。残りの部分については、その首尾はまったく運命的かつ不変と認めて、わたしたちの欲望がそれにかかわらないようにすべきである。しかしやはり、その部分をも多少は期待させてしまう諸理由を考察することで、わたしたちの行動を統御するのに役立てるべきである。たとえば、ある場所に用事があって、そこへは二つの違った道を通って行くことができ、その一方の道はふだんは、他方の道よりはるかに安全だ、という場合がある。ところが、摂理の決定によればおそらく、このより安全と考えられる道を行けば必ず強盗に出会い、反対にもう一方の道はなんの危険もなしに通れることになっている。だからといってわたしたちは、そのいずれかを選ぶことに無関心であってはならないし、また、この神意の決定の不変の運命に頼ってもならない。が、理性は、通常はより安全である道を選ぶことを要求する。そして、わたしたちがその道に従ったとき、そのことからいかなる悪が起こったとしても、わたしたちの欲望はこれに関してはすでに達成されているはずなのだ。なぜなら、その悪はわたしたちにとっては不可避であったから、その悪を免れたいと望む理由はまったくなく、わたしたちはただ、上述の仮定でなしたように、知性が認識できた最善を尽くせばそれでよかったのだから。そして、このように運命を偶然的運から区別する修練をつむとき、欲望を統御することをたやすく自ら習慣とし、そのようにして、欲望の達成はわたしたちにのみ依存するわけだから、欲望はつねにわたしたちに完全な満足を与えることができるのは確かである。」

命題集 未来のための哲学講座さんのコメント
2022/01/08

私たちに依存しないもの
【私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】

 「したがって摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、偶然的運とは対置されねばならない。そうやって、偶然的運とは、わたしたちの知性の誤りから生じただけの幻として打破されるべきものとなる。たしかに、わたしたちは、ともかくも可能だと認めるものだけを欲望できる。そしてわたしたちに依存しないものを可能だと認めるのは、ただそれらが偶然的運に依存すると考える場合である。つまり、それらは起こりうる、かつてそれに似たものが起こったことがある、と判断する場合である。ところで、このような意見は、わたしたちがいちいちの結果を生むにあずかった原因のすべてを知り尽くしてはいないことにもとづくだけなのである。事実、わたしたちが偶然的運に依存すると認めたものが起こらないとき、それによって明らかになるのは次のことだ。偶然的運によって起こると考えられたものの生起に必要であった原因のどれかが欠けていたこと、したがってそれは絶対に不可能なものであったこと、また、それに似たものも、かつて起こらなかったこと、つまりその生起のためには同様の原因がやはり欠けていたこと。そこで、もしわたしたちが予めこれらの点に無知でなかったならば、けっしてそれを可能とは考えなかったろうし、したがってそれを欲望もしなかっただろう。」

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