幻想列車 上野駅18番線 (講談社タイガ)

著者 :
  • 講談社 (2021年3月12日発売)
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あなたには、『忘れたい』ことがありますか?

毎日を生きるということは失敗と成功の繰り返しであるとも言えます。朝、決まった時間に起きて、身支度をして、決まった時間に家を出て、決まった時間の電車に乗る…ある意味パターン化された日常ではあるのかもしれませんが、それは俯瞰して見れば予定していた通りに一日を過ごせたということも意味します。それは、本来喜ぶべきことですが、そんなことにいちいち喜ぶ人もいないと思います。一方で、寝坊した、家を出るのが遅れた、いつもの電車に乗り遅れた…ということは間違いなく大失態…として認識されると思います。そして、前者は記憶から消え去るのに対して後者は冷や冷やした記憶としてしばらく残り続けるでしょう。人の記憶というものもとても不思議です。

上記した例程度であればまだ救いがあります。日々を生きる中で私たちは大きな失態の先にいつまでもそのことをクヨクヨすることがあります。そんな時には、そんな記憶を『忘れてしまいたい』と思いもします。楽しい記憶は保持し続けたい一方で、嫌な記憶は消し去りたいと思う私たち。

さてここに、そんな私たちの希望を叶えてくれるがごとく、『記憶を消してくれる』という『幻想列車』を舞台にした物語があります。それぞれの迷いと悩みの中に前に進めなくなってしまった四人の主人公がそんな列車に乗り込むのを見るこの作品。まさかの『空へと飛び上がっ』ていくファンタジーな列車が描かれるこの作品。そしてそれは、本当に『忘れたい記憶』とは何なのかを読者のあなたに突きつける物語です。

『僕はいったい、どうしたいんだろう』と大学最寄りの『上野駅』の構内を『ひと気の少ない場所を探して』歩くのは主人公の紺野博己(こんの ひろき)。そんな博己は『十三番線をスタートに、十七番線まである』『長距離線』に、『十八番線が見当たらない』ことに気づきます。『どういうこと?』とは思うものの『それ以上追求する気にはな』りません。『ベンチに腰を下ろした』博己は、『カバンから封筒を出』し、『封を開け』『三つ折りにされた』紙を見てため息をつき『…春から先生かあ』と『採用』の文字を見ます。『地元の、私立中学の採用試験の結果』という通知を見て『何で受かったのかな』と思う博己は『四十倍以上』の難関を潜り抜け『音楽』の教師として採用された結果を複雑な思いで見ます。『音大出身』ではあるものの『仮に最高峰の学校を出たとしても、演奏家で身を立てられる人はごく一部』という現実の中に、『卒業したら地元に帰ってきなさい』という母親の出した条件に従って受験した地元の教員職。『上には上がいて、天才が自分よりも努力していて、どんなにあがいても、同じようにはなれない』という自覚はあるものの、『納得しきれない』博己は、『いっそのこと…忘れられたらいいのに』と思います。『あー…どっちも嫌だ』と思いながら、カバンからチョコレートを取り出した博己ですが、手を滑らせ『ベンチの下に入ってしま』いました。やむなく『ベンチの下を覗』くと光るものを見つけた博己。『拾って手のひらに載せ』ると、それは真鍮製の『鍵』でした。そんな中にふと顔を上げた博己は『レトロな雰囲気』を纏ったドアを目にします。そんな時、『鍵を持っていた博己の右手が、自分の意思とは関係なくドアの方にのび』ていきます。身体ごと持っていかれる中に『ぶつかる!』と思った瞬間足は止まり、『鍵を持っていた手が穴に吸い込まれるように動』き、ドアが開きました。中へと入った博己の前に『一両編成の列車があ』り、『十八の数字』が見えます。『全体は艶やかな臙脂色で、窓枠は細い金色の縁で装飾されている』という列車を見ていると『オイ』、『何をしている?』と『男児のような、可愛らしい声がし』ましす。そこには、『耳はウサギのようにピンとしていて』、『イタチのようなキツネのような』『ヘンな生き物』がいました。『就職のことで悩みすぎて、精神的にマズイ状態になってしまったのだろうか』と不安になる博己に『現実逃避』するなと騒ぐ動物。そんなところに『テオ、驚かせすぎですよ』と『制服姿の男性』が現れました。『服装からして車掌か運転士だろう』と思う博己は、『あの…この列車は…』と尋ねます。そんな問いに『制服姿の男性』はこんな風に答えました。『この列車は、お客様が”本当に忘れたい記憶”へご案内いたします』。本来存在しないはずの『上野駅』の『十八番線』へと紛れ込んだ博己が、自らの記憶を選択する先の物語が描かれていきます…という最初の短編〈一章 紺野博己 二十二歳〉。自らの進路に思い悩む大学生のさまざまな思いに光を当てていく好編でした。

“上野駅の幻の18番線には、乗客の記憶を一つだけ消してくれる列車が停まっている。忘れられるものなら忘れたい ー でも、本当に?自分の過去と向き合うため、彼らは謎めいた車掌と不思議な生き物・テオと共に旅に出る”と内容紹介にうたわれるこの作品。2012年に「きじかくしの庭」で第19回電撃小説大賞を受賞して小説家としてデビューされた桜井美奈さんですが、「殺した夫が帰ってきました」のようなサスペンスミステリーから、刑務所の中の美容室を描いた「塀の中の美容室」など取り組まれているジャンルは多彩です。そんな中に”もし人生を3分間だけやり直せたら”ということをテーマにしたファンタジー「さようならまでの3分間」があります。何とも味わい深い作品ですが、この作品も同作同様に桜井さんが手がけられたファンタジーの一作となります。

『上野駅』には22番線までのホームが存在しますが、新幹線開業に関連して1999年をもって『18番線』は廃止されています。この作品はそんな今となっては幻と言えるホームを舞台に展開していきます。そんな『18番線』に発着するのがこの作品に描かれていく『幻想列車』です。表紙のイラストが想像力を補完してくれますが、どんな列車か本文中の文章表現をもって見てみましょう。

・『普段乗っている電車よりも二回りくらい小型で、何より目を惹くのは車体が木製であることだ』。

・『全体は艶やかな臙脂色で、窓枠は細い金色の縁で装飾されている。出入り口は一ヵ所しかなかったが、二枚の扉がスライドするタイプらしく、開口部は広い』。

・『車両は一両のみで、運転席は一応あるが今どきの自動制御されたタイプとは程遠い古い作り』

さて、イメージが湧いたでしょうか?そして、そんな『幻想列車』のすごいところが、次の一文に記されます。

『列車が飛んでいる。列車が空の上を走っていた』

そうです。『嘘だろ…飛んでる』と主人公たちが興奮する様を見る通り、この作品に登場する列車は空を飛ぶのです!空飛ぶ列車といえば松本零士さん「銀河鉄道999」が有名です。あの作品には不思議な車掌が登場しますが同様に、この作品にも二人?の不思議な存在が登場します。

・テオ: 『ピンと伸びた耳。細長いしっぽ。手や足と形容するには短い四肢』、『ネズミのような猫のようなキツネのような』、『目は大きく顔立ちに愛嬌がある』という『絶対に人ではない』、『へんな動物』。チョコレートが好物。

・車掌: 『くっきりとした二重の瞼に通った鼻筋』、『三十歳前後』、『恐ろしく整った顔立ち』で、制服を着ている。

こちらも表紙のイラストを見ていただいた方が早いと思いますが、なんとも個性豊かなキャラクターです。この作品は、四つの短編が〈エピローグ〉と共に連作短編を構成しています。テオと車掌はその全てに登場し、乗客となる人物にこの列車について説明をし、空を飛ぶ旅に一緒に同行します。四つの短編には、それぞれ主人公が登場します。では、主人公の名前と年齢が章題となる四つの短編をご紹介しましょう。

・〈一章 紺野博己 二十二歳〉: 音大の卒業を間近に控える主人公の博己は、卒業後の進路に悩みを深めています。地元の『私立中学校』で音楽の教師になるか、それとも『演奏家』としての道に進み『ピアニスト』になるか。そんな中に『プロの演奏家になりたいって気持ちを忘れられたら』と願います。

・〈二章 日野俊太 三十五歳〉: 『四歳の息子』を『殺して得た』『保険金』が五千万円あると語る主人公の俊太は、妻も死に、一人になった今を嘆きながら生きています。生きる希望を失ったという俊太は、『過去に戻りたい』と望むも当然叶いません。そんな中に、『大切な二人の記憶を、すべて消し』たいと願います。

・〈三章 橋爪紗耶香 二十八歳〉: 『最初は気のせいだ』と思う中に、まさかの痴漢に襲われた主人公の紗耶香は、『斜め後ろにいた男性』に救われます。しかし、『ツイていない日はとことんツイていない』という『人生最悪の一日』を過ごすことになった紗耶香。そんな中に、その一日のことを『全部忘れたい』と願います。

・〈四章 野田華依 三十三歳〉: 『同じ会社で働いている、一年先輩』と付き合う主人公の華依は、『付き合って丸三年』で『プロポーズ』を受けます。しかし、そんな華依は過去のある記憶の中に躊躇する日々を送ります。そんな中に、『私が生まれてからこれまでの記憶、すべて』を消したいと願います。

四つの短編は、基本的にその短編内でほぼ完結し、他の短編に波及はしません。逆に言えば、それぞれの短編の主が『幻想列車』に行きつき、空を飛ぶ旅の中で、テオと車掌に自らの想いを語り、どうしたいのかという希望を述べ、それによって…という物語が同じように繰り返されることになります。この点が多少飽きがきやすいのが難点ではあります。少し脱線しましたが、その繰り返される物語、それこそが、

『この列車は、お客様が”本当に忘れたい記憶”へご案内いたします』

というこの『幻想列車』の核心に繋がっていく部分です。私たちは日々の生活の中にさまざまな経験をしていきます。それは、”喜怒哀楽”という感情のいずれかに属するものだと思います。楽しく素晴らしいと思える時間を過ごせれば日々は幸せに包まれた人生になると思いますが当然にそんなことばかりではありません。自ら大失敗をすることもあるでしょうし、他人との関係性の中で嫌な思いもすることもあるでしょう。そして、あまりに辛い経験をすると、そんな嫌な記憶は一分一秒でも早く消し去りたいとも思います。ベロンベロンに酔っ払って…という行為はもしかしたら、そんな嫌なことを忘れたいと願う自然な感情の発露なのかもしれません。そんな時、記憶とはとても厄介なものに思えてきます。辛い、苦しいことから離れたにも関わらず記憶が残り続けているためにいつまでも辛い、苦しい思いが継続してしまうからです。

『記憶は人を縛ります。縛られたままでは、そこから動けなくなってしまいます』

記憶によって縛りつけられたままでは人生を前に進めることはできません。最後にはそんな辛く苦しい記憶に立ち戻ってしまうからです。そんな中には、

『いっそのこと…忘れられたらいいのに』

という思いが生じるのは自己防衛本能とも言えます。この作品では、『幻想列車』の力によって『悪い記憶を消す』という考え方が描かれていきます。ただし、ことはそう単純ではありません。

『悪い記憶を消す代わりに、良い記憶も消えます』

そうです。『悪い記憶』だけでなく、それ同等の『良い記憶』も同時に消えてしまうという条件が突きつけられるのです。このことによって主人公たちは迷いの中に苦しむことになります。

『人は記憶によって生きています』

そんな言葉の先に、『良い記憶は前に進む原動力にな』る一方で、『悪い記憶』は『枷』となって私たちを苦しめ続けます。この作品には、四人の主人公たちそれぞれがの『良い記憶』と『悪い記憶』を見る中に、前に進むためにはどうすべきなのか、彼らが悩み苦しむ先に出した答えの中に一つのヒントを見る物語が描かれていました。

『この列車は、お客様が”本当に忘れたい記憶”へご案内いたします』

『上野駅』の幻の『18番線』から発車する『幻想列車』へと招かれた四人の乗客が『本当に忘れたい記憶』に対峙していくこの作品。そこには、四人それぞれの人生の迷いの瞬間が描かれていました。テオと車掌の迷コンビ?が物語をコミカルに演出するこの作品。記憶というものの有り様に想いを馳せるこの作品。

もし、自分が記憶を消してもらえるなら、一体どんな記憶を選ぶだろう…そんな思いに囚われた作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 桜井美奈さん
感想投稿日 : 2023年11月20日
読了日 : 2023年7月30日
本棚登録日 : 2023年11月20日

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