こうふく みどりの

著者 :
  • 小学館 (2008年2月28日発売)
3.56
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本棚登録 : 1140
感想 : 180
4

『どこ行くねんな。
どこて、言うたやんか。「金」。焼肉屋。テレビの撮影見に行くねん。
なんで俺も行くねや。
ええやんか、おもろいやんか。なんか、用事あんの?
ないけど。
ほな、ええやん。あんた背高いし、テレビの人にスカウトされるかもせーへんで。
なんじゃそら。』

二人が大阪弁で話すこの会話。あなたは、これを読まれた時、どう感じたでしょうか?
Q1) とっつき難かった?
Q2) 読むのに時間がかかった?
Q3) べたべたした感じを受けた?
Q4) “せーへん”を自分の知っている言葉に”翻訳”しようとした?
Q5) 喜劇の一場面のセリフかと思った?
ブクログには全国からレビューが投稿され、私のこのレビューも全国の皆様に見ていただいているのだと思います。そんな日本各地には、その土地土地によって方言が存在します。色々な数え方もあるようですが、日本の方言は最終的には16種類に分類されるようです。意外と少ない印象もありますが、この小さい島国の中にそれだけの独自の言葉があることに一方で驚きます。そんな方言の中でも、大阪弁(もしくは関西弁)は関西という文化圏の規模感もあって日本全国どこにいても何かしら耳にする機会が多い方言だと思います。しかし一方で、小説の中で全面的に大阪弁が展開するとなると、それは珍しい部類に入ると思います。私はここ数ヶ月で小説ばかり200数十冊を読んできましたが、大阪弁で記述されたものはあれと、これと…と数えられるくらいしかありません。ただ一方で、数えられるということは、私がそれを強く意識している証拠でもあります。話がそれましたが、上記で出させていただいた5つの質問に戻ります。これらに”Yes” or “No”で回答するとしたらどうでしょう。大半を”Yes”と答えた方がいらっしゃる一方で、大半を”No”と答えた方もいらっしゃるはずです。上記した5つの質問は、小説自体の印象を問うものではありません。ただの大阪弁の会話の印象を問うただけです。にもかかわらず、”Yes”と”No”にその印象が分かれてしまうという現実。『私自身、しゃべる言葉が大阪弁なので、一番自然に書けるのが大阪なのかなって』と語る西加奈子さん。そんな西さんが描くこの作品は、全編に渡って大阪弁が展開する物語です。そんな大阪弁による記述は、果たして物語をどう読者に印象づけていくのでしょうか?

『平日昼過ぎの銀行は、動きのとろい人が多いような気がする』、そして『うちは、なんや眠い。ここに布団しいてもろたら、そのまま寝てしまいそうな感じや』というのは主人公の辰巳緑、『うちには兄弟もおらへんし、ついでに父親もおらへん』という中学二年生。『ちょっと銀行行ってきて』と言われ、お金を下ろしに来た緑。『今月の生活費三三万円。ついでやから銀行の緑の封筒を束で全部もらう』という緑は地元の上洲商店街を歩いて帰ります。そんな時、田村のおっちゃんに会いました。『おう、緑やないけ!』と大きな声に『おっちゃんかぁ、おはよう』と返す緑。『おはようちゃうやろお前何しとんねやこんな時間に。学校はぁ、なんや創立記念日かなんかか』という質問に『学校あるけど、風邪気味やから休んでん』と返す緑。『ええ身分やのう。おっちゃんも風邪引いて休みたいわ』という平和な平日の街中。『ただいまぁ』と家に着くと『ぬっと顔を出し「にゃあ」』と鳴く『挨拶を忘れへん、律儀な猫』のカミさん。『いつの間にかホトケさんも、のちょのちょやって来た』というこちらも飼い猫。そしてもう一匹、『いつも小屋の中で寝てる』ポックリさんという犬。そんな時『視線を感じた』という先には『台所の引き戸から、桃ちゃんがこっちを見てた』という姪っ子。そして『おかえりぃ』と『台所で藍ちゃんが餅を焼』きながら声をかけます。『桃ちゃんは四歳やのに、まだ藍ちゃんのおっぱい吸いにくるんやと言うてた』という訳ありな母と娘。そんな時『あ!藍ちゃん。桃ちゃんまたおしっこ!』と緑が叫ぶも『え?あーあー』という展開。『おしっこを踏まんように注意しながら、居間へ行』くと、『緑おかえりぃ』と『紫がかった煙草の煙』を噴出させながら言う母、一方『縁側で爪を切ってる』おばあちゃんは『なんぼやった?』と緑に尋ねます。『三十万ちょっと』と返す緑に『ほうか』と答えるおばあちゃん。『お母さん、封筒置いとくで』と言う緑に『鏡台入れといて!』と『何でも鏡台の引き出しに入れる』お母さん。そんな一つ屋根の下に女性ばかり五人と三匹が暮らす辰巳一家のごく普通の日常が淡々と描かれていきます。

「こうふく みどりの」というなんとも不思議な書名のこの作品は「こうふく あかの」という作品と二部作として刊行されています。どちらから先に読んでも良いということだったのでこちらを選びましたが、その不思議感は書名だけでなく本文の中で視覚的にも続いていきます。まずはその冒頭の一行目。『そのまま前にお進みください』という一文が、それに続く本文よりもフォントサイズを上げて単独で見出しとして記述されています。これには流石にえっ?と固まらざるをえません。そして、『平日昼過ぎの銀行は、動きのとろい人が多いような気がする』という本文が続くこの冒頭。もしや、というその先にも『画面の案内に従ってボタンを押してください』『お取引後の残高3462円』という文章が何故か太字で強調して表記されていきます。さらには『資産運用、他人事だと思っていませんか?』とまたまた太字の文章が登場します。当初、”太字=重要”と理解しましたが、太字が登場すればするほどに、どうしてこの一文が太字なんだろう?と困惑してしまいます。そして、ようやくこれらが主人公・緑の目に入ってくる掲示物や、ディスプレイに表示されている文字列の記載だということに気づきました。全編に渡ってこの太字は数多く登場しますが、ストーリー的には直接関係がないと思われるものが大半です。しかし、よくよく考えると、普段我々は日常生活を送る中で、緑と同じようにこういった莫大な文章を知らず知らずのうちに目にしていることに気づきます。普段はサクサクと脳が意味のあるもの、ないものを振り分けてくれるためにその圧倒的大半は記憶にも残らないのだと思いますが、それを書き起こしていくとこんな風になっていく、西さんの目の付け所の面白さと、それを作品の中でこのように展開してみせる構成の妙にただただ感心させられました。

また、太字ということで言うともう一つあります。この作品は基本、緑の第一人称で展開しますが、途中に幾度も太字で、緑視点の物語とは一見全く関係のない謎の人物視点のストーリーが並行して描かれていきます。小説内小説とも感じられるくらいに緑視点の文章とは一線を画す圧倒的に沈鬱な世界観のその文章は、やがて結末に向けて緑視点の世界と一つに繋がっていきます。それは、少しづつ、あれ、あれれ、という感じで近づき、そういうことか!と納得感のある結末へと結実します。このあたり、複数の世界観のストーリーが同時に楽しめるとも言え、とても上手いなぁと感じる部分でした。

そして、この作品は何を置いても、大阪弁無くしては語れない物語だと言って過言ではないでしょう。『私自身、しゃべる言葉が大阪弁なので』と語る西さんが書きおろす大阪弁は、ブクログのレビューからも、普段使いの方にも全く違和感のない本物として捉えられているようです。レビュー冒頭の二人の会話の他、
『せやかて…、せやかて、やっぱりテレビは、すごいやん』
『まあ、ええわ、行こ!』
『阿保、お前。よう見てみい、店のお母さんやがな』
といった感じで、活き活きとした大阪弁の会話が全編に渡って記されていきます。ただ、上述した5つの質問で、大半が”Yes”になる大阪弁には慣れていないという方の場合、この圧倒的な大阪弁の洪水は冒頭から数ページ読むにも普段以上に読書の時間がかかってしまうと思います。実際、ブクログの感想の中でもそれによって途中で断念したと書かれている方もいらっしゃいます。でも、このことは裏返せば、それが本物である証拠。それっぽく書かれたものではなく、あくまで本物の活きた大阪弁がそこにある。生活に根ざした大阪弁がそこにあるというところにこの作品が潜在的に持つ力強さのようなものがあると思いました。

では、そんな大阪弁を使っていらっしゃる人々をイメージすると、どんな言葉が思い浮かぶでしょうか?私の頭に思い浮かぶのは”人情”の二文字です。苦しくって辛くって、それでも顔を上げて前を向いて歩いていく人々、ステレオタイプなイメージと言われればそれまでかもしれませんが、私が抱く、活きた大阪弁の先に浮かぶイメージはこの二文字です。そう、この作品に大阪の街を見た、大阪に活きる人たちの喜怒哀楽の人生、紛い物でない本物を見た、そういった感覚を抱いたのがこの作品です。
『阿保やなぁ』
という言葉が決して人を本気でバカにしたものではないというその世界観。大阪弁に慣れていらっしゃらない方には慣れるまでは”読みづらい”と、ハードルが高く感じられるかもしれませんが、それを一つ越えた先に広がる世界には、ほっこりとした世界観の中に力強く生きていく人々の熱い思いが感じられる世界が待っていました。

大阪のとある街を舞台に描かれたこの作品は、女性の力強さを感じる物語でもありました。さまざまな事情を抱える彼女たちには、その逆境を跳ね返し、それでも生きていこう、前へと進んでいこうという力強さ、たくましさがありました。そんな彼女たちの日常が淡々と描かれたこの作品。

『こうふく』とはなんだろう、人として生きていく中でのそんな根源的な問いかけを改めて意識する機会を与えてくれた、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 西加奈子さん
感想投稿日 : 2020年11月5日
読了日 : 2020年10月10日
本棚登録日 : 2020年11月5日

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