新しい星

著者 :
  • 文藝春秋 (2021年11月24日発売)
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あなたは、人生の岐路に立たされた経験があるでしょうか?

私たちの人生は短いようで長いものです。”人生、山あり谷あり”と言われる通り、私たちの人生は起伏に満ちてもいます。幸せの絶頂の中に過ごす瞬間があれば、鬱屈としたどん底を彷徨うそんな瞬間もあります。それが人生、それでこそ人生と言えなくもありませんが、どん底を生きる中には、もうこのまま二度と光を見ることなく堕ちていってしまうのではないか、そんな思いに苛まれもします。なかなかに人生を生き抜いていくということも大変です。

さて、ここに、そんな人生のどん底に立たされた主人公たちを描いた作品があります。

『よい恋愛をしたと思っていたし、よい結婚をしたと思っていた。よい出産、よい子育てへ、道は真っ直ぐに続いていくのだと意識すらせずに信じていた』。

そんな幸せな人生の先に、『汚水を吸った綿にでもなった気分』を味わうことになった主人公は、『なにかを思えば涙になる。叫びとして、ほとばしる』という思いに苛まれていきます。

自分の人生というものはどこまでいっても自分のものです。その悩みは自分で解決していく他ありません。しかし、もし、そんな悩みのどん底の中に、支え合い、励まし合える存在がいたとしたら、それは、きっとその先に続く道へ歩き出すための勇気となって私たちの背中を後押ししてくれる存在にもなるはずです。

この作品はかつて大学の合気道部で一つの時代を共に過ごした四人の主人公たちの物語。そんな主人公たちが、それぞれに岐路に立つ中に思い悩み、苦しむ様を見る物語。そしてそれは、お互いのことを思い、それぞれがそれぞれに優しい眼差しを向ける中に「新しい星」の上を歩き出す主人公たちの姿を見る物語です。

『自分がもう一度産まれ直したような、生々しく忘れがたい感覚』だと『三年ほど前のある昼下がりの出来事』を思い返すのは主人公の森崎青子(もりさき あおこ)。『リビングの床に横向きに寝そべ』った青子は『ほんの数ヶ月のうちに自分の身に降りかかった出来事』を思い返していました。『産まれて間もない子供を亡くしたばかりだった』青子は、自分が『子供を育みにくい性質を有している可能性があることを知』り、結果として『それが決定的な理由とな』って、『夫の穂高と離婚し』ました。実家に戻り『自分が空っぽになったような虚脱感に襲われた』青子は、『なんだか見知らぬ惑星に寝転んでいるような』思いに囚われます。一方で『あの子に ー なぎさに触れた時間は、気が狂いそうなほど苦しくて、でも、素晴らしかった』と思う青子は『命が一つ、目の前で熱を放っていた。忘れていないし、きっともう死ぬまで忘れない』と感じ、『それなら私は、失ったのではなく、得たのではないか』と思い至ります。そんな時、母親に声をかけられた青子は『なぎさが、そばにいるの。私を慰めてくれてる。だから私はこれから、一人でもちゃんとやっていけると思う』と語りますが、『ちゃんと現実を見なきゃ。気持ちを切り替えて、次の生活に踏み出すの』と言う母親は、『子供はいらないっていう男性だって探せばきっといる』と語ります。そんな言葉に、もう母親に『メッセージは届かない』と思う青子。その後、婚活を強いる母親から逃れるように実家を後にした青子。そんな青子は塾講師としての今を生きていました。しかし、保護者からのクレームに端を発したトラブルで上司である塾長から注意を受け憂鬱な思いに陥る青子は、『明日、一緒にドライブに行く約束をしている』大学の合気道部以来の友人である茅乃からメッセージを受けます。『色々話したい』というその内容が気になる青子。そして翌日、『普段と変わった様子はなかった』茅乃でしたが、『日帰り入浴』で立ち寄ったホテルの露天風呂で唐突に自身が置かれている状況を語ります。『乳癌になったよ。来週、手術』。そんな言葉にまだ五歳という彼女の娘のことを思い浮かべる青子の前で『娘の、前で、泣きたく、なくて』と茅乃は涙を流します。そして、『怖くなったら、電話していい?』と訊く茅乃に『もちろん。朝でも夜でも、いつでもいいよ』と返す青子。そんな青子と茅乃のそれからの日常が淡々と描かれていきます。

第166回直木賞の候補作にもなったこの作品。「別冊文藝春秋」に2019年9月から2021年11月まで八回にわたって連載された後、単行本として刊行されたもので、主人公を共通とする連作短編の形式をとっています。

そんな物語は上記冒頭でご紹介した中に登場する青子と茅乃の他、二人の大学時代に合気道部で青春を共にした玄也と卓馬の四人に視点の主を移動させながら描かれていきます。まずは四人の主人公をそれぞれがどの短編で視点の主を務めるかも付記しながらご紹介したいと思います。

・森崎青子: 『産まれて間もない子供を亡くし』た後、『次の妊娠』への考え方の相違で夫とは『別の人生』を歩むことに。塾で英語を教えているが、保護者からのクレーム対応で上司の塾長の考え方に不満を覚える。
→ 視点の主: 1章、3章、7章

・日野原(大橋)茅乃: 『乳癌の手術を受け』『左の乳房を摘出』後、『腕のリハビリと体力作りを兼ねて』『合気道の道場に』通い始める。娘の奈緒を中高一貫教育校に入学させたいと願うが、関係がギクシャクしている。
→ 視点の主: 6章

・安堂玄也: 『大手企業からの転職者』である上司に嫌われたことをきっかけに体調を崩して会社を退職。『あらゆる人々に引け目を感じるようにな』り、『家に引きこも』っていたが、合気道に通うようになったことできっかけを掴む。
→ 視点の主: 2章、5章、8章

・花田卓馬: 『新型ウイルスの感染拡大の影響で』結果的に、『東京に戻りたくない』という妻の杏奈や子供たちと別居生活を送ることになる。そんな中、夫婦の関係を思い起こし、『どうすれば正解だったのか』という思いに苛まれていく。
→ 視点の主: 4章

四人の主人公たちは、大学の合気道部時代を共にしたといっても卒業後はそれぞれの道を辿り、それぞれの人生を生きています。そんな四人はそれぞれの人生の中で一つの試練とも言える状況に立たされていました。『産まれて間もない子供を亡くし』た青子、引きこもりの人生を送る玄也、まさかの家族別居という状況に陥った卓馬、そして乳がんの宣告を受けた茅乃。しかし、これらの状況は本人たちにとっては一つの人生の岐路とはいえ、決して珍しい状況ではなく、広く世の中でありうるものばかりです。もちろん、だからといって本人たちにとってはその先の人生を嫌が上にも思わずにいられない大きな出来事に違いはありません。

そんな物語の展開の中に一つ、はっとする表現が登場します。第一編〈新しい星〉では、青子が『産まれて間もない子供』との死別を経験しますが、そんな経験を引きずる中に、実家の『リビングで転がっている』にも関わらず、『なんだか見知らぬ惑星に寝転んでいるような、怪しく心もとない気分に』陥ります。そんな中で『私は結局のところ、なにをなくしたのだろう』と考える青子は、『命が一つ、目の前で熱を放っていた』瞬間を思い起こします。それは、『てのひらに収まるほど小さな頭、平たい背中とおむつのごわつき、皮膚へ染み入る切ない体温』という なぎさとの素晴らしいふれあいの瞬間でした。そして、そんな体験を『きっともう死ぬまで忘れない』と思う青子は、『失ったのではなく、得たのではないか』と思い至ります。そんな中に、この作品の書名に繋がる一つの思いに達する青子。

『今、とても大切なことがわかった気がする、と。ふいに叩き落とされた新しい星で、握り締めていられるものを見つけたかもしれない』。

ここに「新しい星」という書名が登場します。“長い人生、思いもしなかった新しい星に一度も叩き落とされずに済む人なんて、たぶんいないと思うんです”と語る彩瀬まるさん。そんな彩瀬さんは”恥じたり隠すよりは、私は助けてって言いたいし、困ったら抱え込まず外部に連絡できる自分でいたい。誰かが病気になった時も、その状況を共有し、『キミは格好よかった』とお葬式で言えるだけで傍にいた意味はあるし、誰も可哀想なんかじゃ全然ないんだって、それが私の最も言いたかったことかもしれません”と続けられます。私たちが生きている中では、思いもかけずそれまで歩いていた道に障害物が現れたり、道が閉ざされたり、そして方向に変化が生じてしまったりと、それまでの歩みを変えざるを得ない場面に遭遇することは誰にでもあると思います。そんな岐路の先にある道は、彩瀬さんが「新しい星」と定義されるように、それまでとは違った生き方を要求される場でもあるのだと思います。この作品では、図らずもほぼ同時期にそういった岐路に立たされた四人の友人たちが、さまざまな形でお互いを気にかけ、励まし、そして労わり合いながら、「新しい星」で生きていこうとするそれぞれを支え合っていく姿が描かれていました。

『悲しみはこの世で唯一の味方のように寄り添ってくれることもあるけれど、今この瞬間はだめだ。世界と私を、隔ててしまう』。

『みんな立派になって、安心したいのだ。そのために立派じゃなさそうな自分を一生懸命に隠す。立派に思われようとする。もしくは、立派であろうとして無理をする』。

そんな思いの先に、それでもこの世を生きていかなければならない私たち。思えば人生というものは極めて過酷で、厳しい試練を強いるものでもあると思います。そんな中に見る四人の友情は、決してお互いを決定的に救い合ったわけではありません。そこにあったのは、それぞれの人生を温かく、優しく、そして静かに見守り続けるそんな四人それぞれの関わり合いの先に続いていく未来を見る物語なのだと思いました。

『いったいなにが無理だったのか、どうすれば正解だったのか、ぴんと来ない』というように、突然に訪れる私たちの人生の岐路。そして、その先に続くのは「新しい星」に降り立った新しい自分が歩み続ける人生の物語。この作品では、四人の主人公たちが、それぞれに悩み、苦しみ、そしてもがく中に、そんな「新しい星」で生きていくそれぞれの姿を見ることができました。それぞれがそれぞれを見やる眼差しの優しさを感じるこの作品。”新しい星に突き落とされる人は、決して珍しくないはず。その星で奮闘することは、何も恥ずかしくない”とおっしゃる彩瀬さんが描く未来へと続いていく道のりの先に人の再生を見るこの作品。

彩瀬さんらしく日常を丁寧に紡いでいく筆致の中に、人が人を想う優しさを見る素晴らしい作品だと思いました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 彩瀬まるさん
感想投稿日 : 2022年9月3日
読了日 : 2022年4月28日
本棚登録日 : 2022年9月3日

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