日本人とユダヤ人

  • 山本書店 (1970年5月1日発売)
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【要旨】

 日本人とは「人間」に基づいて規定された「言外の言」「法外の法(一種の宗教規定)」「理外の理」で行動する日本教徒である。
 遊牧民との接触がなかった農耕民で、開始時期から収穫までの行動が寸分違わず決められたキャンペーン型稲作に従事した結果、一定の方向に向かって統一行動を取るようになった。
 これらに端を発する民族的文脈に、異文化との接触が置き換えられることで、日本人の異文化理解は実態とかけ離れていることを指摘。互に交われば相互に通ずるという間違いへの警告と、日本人の優位性、欠点への理解を主にユダヤ人との対比から説く。

【要約】
・日本人は「水」と「安全」を無料で手に入れてきた。そのため安全保障に関して、自助自衛の観念が薄い。保険という概念が、圧倒的安全の前で稀薄になるため、安全保障的な保険概念を理解できない。

・日本人にとっての災害とは「無差別」「一過的」だった。そのために「差別的」「持続的」な災害もしくは人災への免疫が薄い。

・日本人の生き方は、一定期日を定めて、そこから逆算し、秒刻みのスケジュールで事を運ぶ「キャンペーン型稲作」であり、右に倣えの「となり百姓」的な戦略しか持ってこなかった。

・物事への対処は「待つ」消極戦略。マイウェイ型の人間は排除される。

・問題に対して単一過程解答のスタンスを取るので「思い詰め」によって極論、極端な行動をとる。この点、何個ものアイデアを持ち寄り複数の選択肢を持つという柔軟な発想に至らない。

・分刻みのスケジュールに追われている日本人は「時間」に追われる毎日を送っているが、牧畜民的行き方をする人々は時間と共に在るように生きる。

・日本人社会は「言外の言」「法外の法」「理外の理」と無意識の構成要素で「こうあるべき」という道徳的な暗黙の了解に基づいて運営されている。

・憲法は聖典扱いされ、一度も改正されたことはない。

・日本人は性≠利殖で、性をあくまで情緒の対象とし神秘的で幽玄のものと捉える。西欧では性=利殖であり、情緒的なものとは捉えていない。

・日本語は条文主義で抽象表現の連続。西欧は判例主義で具体の連続。

・日本的思考はソロバンを計算するような意識的思考の排除が特徴で、西欧は数学的で意識的思考と集中力を必要とする。現在の日本教育は数式的で意識的思考を導入している。

【感想】
 日本人という主語は大きい。でも「ぼく」「わたし」の最小主語へ確実に影響を与えてる。この本を読んで考えたのが「日本人であるわたしたちの生きづらさ」だ。
 先ず「右に倣え」。わたしたちが感じる同期行動への強迫観念は、同期行動を取れない個人への攻撃に向かう。もちろん、その個人のなかには自分も入っている。個性を発揮しろ、の実態も何パターンかあるキャラクターやタイプに自分を当てはめて他者・社会に接する、ということになってしまう。
 いつもいつも個人は

①同化を余儀なくされる。
➁世間のなかに一定の位置を得るための戦いに望む。
③うまく折り合いを着け「普通」と「普通じゃない」を演じ分けるようになるか。
④自分から社会を去るか。(海外へ行く、引きこもる、自殺する)

 を選択することにならないか?この「普通」とはなんだろう?「こういうときはこうする」のようなケースバイケースを見てみると面白い。「普通、お年寄りには席を譲る」「普通、保険にはいる」「普通、就職する」「普通、男が女が~する」と、挙げていくのも面白い。
 ただあまりにも「普通」が日常に溢れているのが分かる。それだけ制約のなかに生きていることが分かる。安全弁になったり、判断の基準になったり、実はとても便利に使い倒していたりもする。ときには、人を殺したりもしている。
 「普通」から転がり落ちてしまったとき「普通」は牙を剥く。仏の顔が鬼の顔に変わるといった具合に、途端に生きづらくなってしまう。例えばいじめの対象になったとき「普通」は自分の味方をしてくれるだろうか?違う。「普通じゃない」あなたは抹殺される。最初はあなた自身の手によって。
 まだ読んでない『「空気」の研究』が楽しみだが、本書の“沈黙のうちに進んで行く実体が、日本人本来の一面で、自らはっきり意識せず方向と速度を決めている”は「空気」を示しているようでもあるし、「普通」を示しているようでもないだろうか?
 それらは間違った方向へと平気でわたしたちを連れていく。アメーバのようで、性欲にも似てる。性欲を優先すると、社会的な抹殺を余儀なくされる。それと同じだ。

 「生きづらさ」に一役買ってるのが「単一過程解答・思考」だと思う。キャンペーン型稲作の従事者だったわたしたちの学習と言えば、応用でも原理の理解でもない。一つの公式の暗記・実践だった。意味を考える暇があったら手を動かし、挑戦を慎んだ。
 幼少期。父親が新しくビジネスを始めようとしたとき、母親のヒステリックがそれを妨害し続けた笑い話が我が家にはある。
 「変わることに命の危険を感じる」のが日本人ということだ。
 これでは非常に生きづらい。さっきのいじめの対象になった人が、学校を変えたり、そもそもいじめを容認する環境から逃げるという選択へ、それまでそこに居続けたという選択を「変え」なかったらどうなるだろう?これが広く一般的に日本社会で起きていることで、個人・家族・企業・国家と日本全体のアイデンティティーにまでなってしまっていることは、多分誰もが知っていた方がいいことだと思う。
 
・性について
 「性≠利殖」と改めて言われなくても、そんなことは分かっているとみんな言うと思う。でも、日本の少子高齢化を見ると不思議に感じる。日本人は「間引き」で赤子を殺し「口減らし」で丁稚奉公にやったりして、一家の経済状況をコントロールするなど、子供を非常に経済的に扱ってきた一面もある。小作人は農作業の人手を確保するのに男の子が優先だった。わたしは日本人も「性≠利殖」だったと思う。
 いまの少子高齢化もそうだ。「養育費」に対して「収入」を確保できない。その見込みもない。そんな要件のなかで、子どもは負債扱いになる。社会保障はどれくらい効果があるだろう。「右に倣え」の日本人だからとなりが子供を生まないならうちもとなる。全体には景気が悪いとか、円安だとか、相対的な経済不安が覆いかぶさってる、むしろ、この相対的な雰囲気の醸成こそが少子化に拍車をかけてるんじゃないか?もし、国民の平均年収が200万くらいで、GDPも低かったら?「景気が悪い」とバブルの操作円高時代の感覚がなければどうだろう?
 「性=情緒」という著者の認識がある正しいのだとすれば、経済不安を抱えて「性=利殖」になったいまの日本で子供を産んでいるのは、中所得の人々が馬鹿にしている「貧乏子沢山」の低所得者だ。彼らのほうが余程「情緒的」だし、他はある程度、金で情緒を買ってきた人間だらけのような気がする。
 仮説①:「性=情緒」の民族が、(進学塾に通えず、大学にも行けず、低所得者になるのは)可哀想だからと情緒的に考えた結果、相対的な低所得者が増えているので少子化が進んでいる
 仮説②:「性=情緒」の民族の情緒は「衣食足りて礼節を知る」の経済に依存した情緒だったため「衣食足りてない」現代では情緒が芽生えず、従って、少子化が進んでいる
 仮説③:「性=情緒」はそもそも間違いで、「性=利殖」の民族のため、単純に経済状況の悪い昨今は少子化が進んでいる。
 仮説④:「性=情緒」の民族だったが、経済成長を経て「性=利殖」へと民族の価値観が変容した。
 仮説⑤: 「性=情緒」であるが、「子ども」は情緒の対象外ということ。

 とまあ色々考えることができる。自分は経済的要件を満たしていても、子供が欲しいとは思わない。きっと欲しいという考え方がすでに「利殖」なのだろう。

 持論を展開したけれど、本書の肝は、日本人の時間概念のような気がする。クロノス(ギリシャ神話の時間神)に追われるとは、ある意味で流れている時間を自分の内的な時間と、世界に流れる外的な時間とに切断して考えた副作用な気がする。時計が無かったころは、太陽が時間だった。暦ができて、現在・過去・未来が誕生して、経済的なメリットを得られるようになった。時間は切り売りできるものになった。それがまずかった。時間と共にあるとは、人工的な時間に捉われないこと、と解釈する。人工的な時間に囚われる行き方とはなんだろう?それはまた考えを深めて行こうと思う。

 他にも日本人とユダヤ人を比較っすると見えてくる国民性は自己理解のヒントに繋がる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2023年2月20日
読了日 : 2023年2月16日
本棚登録日 : 2023年2月16日

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