ソロモンの歌・一本の木 (講談社文芸文庫)

著者 :
  • 講談社 (2006年2月11日発売)
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感想 : 4
5

明晰にして温雅。吉田秀和の文章を読んで受ける印象である。日本における音楽批評というジャンルを確立した吉田であるが、文学、美術にもその造詣は深い。その吉田の批評の核となる「自分」を創り上げてきた幼児期の記憶から、中原中也、吉田一穂という二人の先輩詩人との出会い等、すでに発表された単行本の中から音楽はもとより文学や美術を語った、これはという文章を選んで編まれた随想集である。

「批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシに使って自己を語る事である」というのは、小林秀雄の有名な文句であるが、その小林に近い位置にいて強い影響を受けながら、吉田秀和の批評は小林のそれとは対極に位置するように思える。小林の手にかかると、モオツァルトもゴッホもランボオも、すべて小林秀雄色に染まって見えてくる。それに比べ、吉田が読み解くセザンヌやマティス、クレーはそれぞれ異なった相貌を持った芸術として見る者に迫ってくる。ただ、そこに響いている声音は紛れもない吉田秀和のものなのだが。

それは二人の詩人、中原中也と吉田一穂の思い出を語った文章からもはっきりと分かる。どちらも詩人の中の詩人である。円のように完璧な詩を書きながら、純粋であるために夭折してしまう中原。一方、日本語による詩を突きつめることで、真っ白い原稿用紙を前に一字も書く事のできない一穂。若き吉田は真っ白な紙になって天才詩人の色を吸いとってしまう。遠い日の記憶を探り、そこに染みついた色を、親しげにしかし、近くにいた者だけが知る事のできる真正な詩人の姿を語るのは批評家である吉田だ。

あまり近くにいると、とかく身贔屓や甘え、あるいは逆に近親憎悪的な感情が生まれたりすることが多いものだが、吉田に限ってそれはない。この気持ちのよい透明性のようなものは、どこから来るのかと考えて、それが、彼が学んだ西洋の芸術・文化からであることに気がついた。ギリシア以来の西洋の知をわれわれ日本人は明治以来必死になって模倣し採り入れようとしてきた。しかし、それがどれほど成功したかは疑問である。

近頃の日本人の野卑な口吻からは、われわれが西洋から何も学んでこなかったことが嫌でも分かる。相撲の寄せ太鼓の記憶に始まる自分の生い立ちから西洋音楽受容についての考察に移る表題作「ソロモンの歌」。西洋をよく理解したことがかえって日本及び日本人に対する絶望を呼んでしまった荷風に託して、日本人というものを考えた「荷風を読んで」。この二篇を読めば、吉田秀和という批評家の中にある開かれた明るさのようなものがなぜ可能であったかが分かるだろう。

「私は、荷風が西洋体験でつかんだものは、個人主義であり、その個人主義を原理とする社会と芸術の相互関係だといった。近代の芸術は(中略)すべての面で、個人の自由ということと切り離せない」(「荷風を読んで」)。確立した個人の自由があればこそ、個性や独創というものが尊ばれる。知っての通り日本人は模倣によって国を創り上げてきた。そうせねばならぬ理由があってのことでそのことについて今是非は問うまい。要は模倣の是非ではなく仕方にある。

「日本人の最大の特徴は、外国の浅薄な模倣をよろこぶ気持ちと、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない」(「荷風を読んで」)。昭和45年に上梓された『ソロモンの歌』所収の文章が、いっこうに古びていないどころか、ますますその重みを増して感じられるように思うのは、ひとり吾人だけではあるまい。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 批評
感想投稿日 : 2013年3月8日
読了日 : 2006年4月9日
本棚登録日 : 2013年3月8日

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