アブサロム、アブサロム! (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-9)

  • 河出書房新社 (2008年7月11日発売)
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感想 : 27
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「フォークナーは手強い」と、池澤夏樹が書いていたが、その言葉にうそはない。はじめて読んだときは最初の数ページで本を置き、あとが続かなかった。まだ、準備ができていなかったのだ。池澤は言う。「普通の小説を読むことはちょっとした小旅行に似ている。読者は数日だけ自分の家を離れて他の地に行く。他人の人生を生きてすぐに戻ってくる。(中略)しかし、フォークナーを読むことはそのままヨクナパトーファ郡に移住することである」と。

ヨクナパトーファ郡とは、南部にある架空の地である。フォークナーのすべての作品は、そこを舞台としている。そればかりではない。一つの作品に登場する人物は、同じ人格を備えたままで、別の作品に登場したり、同じ事件が別の角度から語られたりもする。まるで、実在の土地があり、そこに暮らす人々を、そこに暮らす作家が長い時間をかけて取材し、それらの人々の人生を物語っているかのようだ。フォークナーの小説世界というのは、すべての作品が寄り集まってとてつもなく大きな一つの作品を構成していると言える。ヨクナパトーファ・サーガと呼ばれる所以である。

それだけに、一つの作品を一度読んで、ああ面白かったというわけにはいかない。もちろん、一つの作品は一つの作品で独立した作品として成立している。しかし、この作品の後半に突然語り手の対話の相手としてシュリーブというカナダ人が闖入してくる。ヨクナパトーファ郡に長く住んでいる読者にとっては顔見知りなのかもしれないが、行きずりの読者にとって唐突な感は否めない。しかし、裏を返せば移住期間が長くなればなるほど、顔なじみもでき、住み心地もよくなる仕掛けになっている。

『アブサロム、アブサロム!』で描かれるのは、トマス・サトペンという男の一代記である。生まれ育ちのよくない男が幼い頃に受けた屈辱的な仕打ちに発奮し、世間を見返すために豪邸を建て家族を作ろうとする。上流の家から妻をめとり、一男一女をもうけるが、妻は若くして死に、娘は結婚を前にして未来の夫に死なれ、息子は家を出て行方不明となる。男はそれでも懲りずに自分の子孫を残そうとするのだが…。親と子の葛藤、男女の愛憎に加えて、兄妹愛、人種問題、奴隷制、よくもまあこれだけ詰め込んだものだと思うほどのどろどろの人間模様。それらが行き着く先は因果応報といえばいいのか、宿命的な悲劇といえばいいのか。

あらすじだけを書けば近頃流行りの昼メロのようで、なんとも通俗的に思えるかもしれないが、なかなかどうしてそんなものではない。まず、サトペンという人物が尋常でない。よく言えば神話的、悪く言えば怪物的な人物として造型されている。この小説では、多くの人物の口を借りてサトペンの行状が語られるが、語り手は自分の眼が捕らえたサトペンの姿を語るだけで、それらをどう重ねてみてもくっきりとした人物像は浮かび上がってこない。サトペンという謎を追いかけて読者は最後まで引きずられていかざるを得ない。

最後に、題名の「アブサロム、アブサロム!」だが、これは旧約聖書の『サムエル記』にあるダビデ王の言葉だそうだ。ダビデの数ある息子の一人、アムノンは妹のタマルを愛するようになる。近親相姦の禁忌を怒って同じく息子のアブサロムがアムノンを殺す。しかし、アブサロムは王の部下によって殺されてしまう。愛する息子を失ったダビデ王の嘆きが題名の由来である。

出自や家系、血のつながりというものに強いこだわりを見せるのは、作者が南部の出身であるからか。フォークナーは戦後来日した際、自分も敗戦国の人間ですと自己紹介したという。栄華を誇ったいくつもの有力な家系が、南北戦争の敗北を境にして、没落、頽廃してゆく、作家の目はそれを見てきた。フォークナーの小説が、人間の業のようなものを深くえぐり出してみせるのは、決してそれと無縁ではないだろう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: アメリカ文学
感想投稿日 : 2013年3月6日
読了日 : 2010年7月4日
本棚登録日 : 2013年3月6日

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