滑稽な巨人: 坪内逍遥の夢

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  • 平凡社 (2002年12月1日発売)
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湯島境内でお蔦と力が泣く泣く別れたのは、お蔦が芸妓であったからである。将来のある若者が芸妓と一緒になることは立身出世の邪魔になる、そういう考え方が当時の世間の大勢を占めていたからこそ、『婦系図』は新派の狂言として一世を風靡することになった。ところが、である。東京大学出の文学博士がこともあろうに芸妓どころか娼妓と一緒になり、所帯を持つに至っては、世間は放っておかないだろう。しかもそれがシェイクスピアの個人全訳という前人未踏の偉業を成し遂げた坪内逍遙博士であったとしたら、なおのことである。

では、なぜ、逍遙はそんなことをしたのか。実は逍遙という人、このことに限らず、時代の趨勢とはズレていたところがある。有名な『沙翁全集』にしたところで、漱石や鴎外などの留学経験者たちには、その時代がかった訳を軽んじられていたという。どうやら江戸通人文学に精通していた逍遙は、「近代日本にとりついた『個人』と『国家』という二つの憑き物のどちらに対しても、『こんな物を支えに暮らしてゆくわけにはいかない、自分が生きる拠りどころとしてはこれでは不十分だ』と感じていたらしいのである。」

普通の人なら、自分のズレにあわてて、修正を図ろうとするものだが、逍遙はちがった。「国家」と「個人」という憑き物に目もくれず、自分の生きる拠りどころを自分で作ろうとする。もっともそのいずれもが残念ながら失敗に終わってはいるのだが、著者はその失敗の原因を逍遙に何かが足りなかったのでなく逆に過剰であったからではないかと考える。「逍遙の多すぎる夢を読みとく枠ぐみを近代日本は持っていなかった」ために、かれは周囲から浮き上がり「滑稽な巨人」として生涯を閉じるしかなかったのだ、と。

逍遙の夢の一つは、新しい日本の演劇を作ることであった。能や歌舞伎という伝統的な所作事中心の音楽劇を洗練し、思想的に高めた「新舞踊劇(新楽劇)論」がそれである。旧態依然とした旧劇でもなく、かといって西洋の翻訳劇でもない独自路線というところが眼目である。しかも、それを自分の数人の養子を教育することによって実現させようとしていた。逍遙にとって家庭は単なる団欒の場ではなく芸術運動の拠点でもあった。

夢の二つ目は学校である。国家と個人という「強力な利己主義の磁場」を離れて、逍遙が倫理の基準を求めたのが「社会」であった。「大小広狭に拘わらず、習慣的に協同する人間の集合」をできるだけ気持ちよくたもつことを考え実践することを自分の「領分」と考えた逍遙にとって、若い人を家に集め、そこで講義をしたり演劇を練習したりする「家塾」や「自宅学校」というかたちこそ理想の学校であったろう。それは、近代の制度化された学校とは対極にある。逍遙が校長をしていた間、早稲田中学では「教育勅語」の奉読はなかったという。

三つ目は「戸外劇」である。中世イギリスの都市の祭りには魚屋とか仕立屋とかのギルドのメンバーが車舞台に寓意劇を仕込んで広場を華やかにパレードする風習があった。逍遙が最後に試みたのはクロウトの俳優や舞踊家でなく、シロウトの俳優が自分たちの住む町で行うページェントであった。そこには「民衆芸術」や「市民演劇」という視点の萌芽がある。

三つの試みに共通するのは、国家や個人という近代の二つの憑き物に対する徹底した異議申し立てである。イデオロギー装置としての国家に対しては、事ある毎に違和を感じるものの、個人という概念には疑念を感じたことがなかっただけに、「習慣的に協同する人間の集合」を基礎に据えた倫理という考え方には虚をつかれた思いがした。『舞姫』の太田豊太郎に近代的自我を発見したつもりで得々としていたのだが、娼妓を妻とし、世間の風評被害を受けながら最後まで添い遂げた逍遙の自己の倫理観に忠実な生き方の前では、いかにもそれが薄っぺらなもののように思えてくるのだった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 評論
感想投稿日 : 2013年3月10日
読了日 : 2003年3月19日
本棚登録日 : 2013年3月10日

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