早稲田大学国際教養学部教授の筆者は構造主義生物学者だそうです。
したがって、本書の初めの方は、構造主義の本を読んでいるようです。たとえば冒頭の一節。
なんであれ、何かを分けるためには、何かになまえをつける必要がある。モノになまえをつけなくともモノは分けられると言うかも知れないが、でたらめに分けるのでない限り、少なくとも分ける基準がいる。基準は名とは限らないが、他人に伝えようとすると、それはただちに名になる。
筆者は、「モノに名前をつけることは最も初源的な分類である」といいます。
そして、固有名と一般名(普通名)に分けてコトバと概念の関係をあきらかにしています。この辺は、哲学書を読んでいるようで面白いです。
★★★
実用的な側面としては、何かをAと非Aに分けて非AにBという名前を付けることの問題点の指摘は大切と思いました。
例えば、脊椎がある生物と脊椎が無い生物とに分類することは、一見何の問題もないように思えるのだけれど、この2つのグループは「必然的に等価ではない」というのです。
なぜならば、脊椎があるという基準は人間が感覚によって重要であるとみなして採用した基準であるが、脊椎がないという基準は、脊椎があるのをピックアップした単なる残りだからである。言い換えれば、脊椎がないという基準は、我々の感覚が何らかの同一性をもつとみなして採用した基準では決してない。だから脊椎がない動物の中には、外骨格をもつもの、骨片をもつもの、ただグニャグニャしているもの、など雑多なものがいっしょくたに放り込まれているのである。
つまり、我々がよくやってしまう「その他」という分類は分類にはなっていないのですね(その他がいけないのではなく、分類できていないものがあるという認識を持つことが重要と思います)。
★★★
そしてつきつめて考えれば、分類するということは書名にあるとおり分類した者の「思想」の反映というか、思想そのものであることも重要な指摘と思いました。
層別、KJ法、テストでいえばNGT等々はみな、分類し、時に分類したものに名前を付けることを行っています。これらすべての分類は人為的な分類であり、
従って、すべての分類は本来的に恣意的なものである。
わけです。
認識するしないにかかわらず分類がアプリオリに存在するという立場をとった学者(例えばワイリー)もいますが、筆者はそれを明確に否定しています。
- 感想投稿日 : 2012年4月30日
- 読了日 : 2010年9月21日
- 本棚登録日 : 2012年4月30日
みんなの感想をみる