花腐し (講談社文庫)

著者 :
  • 講談社 (2005年6月15日発売)
3.47
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本棚登録 : 252
感想 : 32
4

『ひたひたと』
過去に翻弄されながら、現実と幻の境界が非常に曖昧なまま流れ、宛もなく街を彷徨う榎田という男。こびりついて離れない記憶というものが、頭を巡る彷彿でなく、榎田の体に現象として現れる。彼は幼い子供になり、青年にもなる。これは榎田自身(或いは作者)の記憶という解釈がまんま反映されているからか。榎田は記憶に関して、“その場に現にあるもののことなの。”と、酔った勢いで饒舌に語っている。人が何かを思い出す時、心はいつの間にか過去の自分を現在に降ろし、今の感受性で判断せず、あの時の感情の追体験を心に起こすことがしばしばある。幼い頃の出来事を、大人になった自分になって考えることはできない。たとえ成長と共に強靭な精神に近づいていたとしても、記憶が引き起こすトラウマのような心的損ないは、新鮮なまま時の壁を越えて眼前に置かれる。この作品の榎田の場合、それは少年時代の父の記憶と、青年時代のナミさんという女との記憶である。挙句に彼は自身の過去の幼い幻影を具現化し、会話をし、過去の女の幻影と情事を行う。そして榎田の身体がやがて運河に呑まれ、巻き戻しのように体が変わっていき、やがて細胞になって闇へと消えていく最後は、存在性の保証が消え去ったように思える。存在性とはその人をその人たらしめるアイデンティティであり、かけがえないものに思えるが、同時に心に蟠る影の集合でもある。これらがあるうちは、我々は固有の存在であることに苦悩もしなければならない。確固たる存在とは枷にもなるのである。榎田の暮らしは、“生であり性でも”あったと語っている。彼が過去に囚われて生きている時、心の間隙を埋めたのが女の存在であった。そんな浅薄且つ甘美な欲を転々として生きてきた彼は、過去にどんどん思い出すに堪えない痕跡を落としてきた。榎田という確固たる存在はまさしくその不穏な闇の団塊によって保証されていた。彼が過去というものから不羈奔放になった時、それは死の影が露わになる。おそらくこの物語の最後は、彼がなんらかの形で死に向かぬていくことを自覚したのではないか。おそらく溺死か。私は足を滑らせて運河に呑まれていく最後に初めて記憶に解放されていくところを最後は描写しているのではと思ったがどうであろうか。私はこの最後と、二十頁の運河の水に浮かぶ何かが印刷されていたが水に洗い流された白い繊維との関わりを、どうも同一視してしまう。印刷された字が彼の記憶の比喩であり、波の勢いで二つに畳まれるのは、彼が細胞へと交代してゆく様の比喩である。それに足を滑らせる危険性の描写も途中にしっかり描かれている。稚拙な読解かもしれないが、私にはやはり最後は溺れて記憶が流されている説をおしたい。しかし、私はこれが自殺という結末には異を唱えたい。彼の懊悩は記憶であるが、その記憶を忘却することを望んでいるとは思えない。あくまで、生に悩んで彷徨っていただけであると思う。希死念慮があったとして、それはほんの突発的なもので、彼の本質ではないと思う。
これといったプロットや構成がある作品ではないが、What is memory ?という主題を演じて見せている。人は記憶と共に生き、そこには今までの自分がそのまま内包され、時間という運動を介入させず、その蔓延りは死を持ってしか洗い流せない、ということを言いたいのではないか。

『花腐し』
この作品は芥川賞を受賞している。しかし『ひたひたと』の方が個人的には好みであった。
栩谷は、自身で起業した会社も倒産寸前、友人にも裏切られ、その友人と浮気していた恋人は昔に死別という、人生の苦悩の道半ばにいる。 借金が返せない栩谷は、ある金融会社の貸付人から、歌舞伎町の狭い路地にあるアパートの住民の伊関を追い出してくれと依頼されるが、その伊関と妙な関係を持つようになる。
気味が悪い伊関の弁論には、抗えない魅力があった。伊関はこう言う。この巨大都市新宿は“無数のお化けが寄り集まって途方もない巨大お化けみたいなもの”であり、そこに生きる人間も“偶然が重なり合った蛋白質”に過ぎず、“意識とか心とか倫理とか、みんな怪異のお化け”であると。そして世の中は“塵が寄り集まつて、ほんの一瞬だけある形を作った”だけの“不自然”なことであり、“その一瞬の形というのが人生の全体”であると弁をふるう。伊関の人生そのものも、失敗と愚行から成っていたが、ここまで雄弁に人生について語り、その弁が持つ説得力は、まさに人生を勝ちきれなかったものこそ人生を知るというディキンソンの詩のようであると思えた。そして人生を一瞬の連続と捉えるのには、『ひたひたと』と共通している感じを受ける。絶望したくないのなら、絶望の瞬間を絶望と思わなければいいという伊関の哲学のようなのがあるが、裏を返せば“惰性”の絶望であり、絶望と気がつかない絶望である。しかし栩谷にとっては、彼自身過去に対して積りに積もったものを背負っているため、刹那的な人生観がいかに恍惚であったろうか。
東京の都会に川はない、というのは人の生活から記憶が流されていくことはないということを暗に意味しているのではないか。欲望や記憶や喜怒哀楽といった人間が持つものは、ずっと沈殿しっぱなしで、東京を囲う海のように消えることなく揺蕩っている。そんなうつし世で、瞬間的な生き方を選ぶのなら、この物語の最後のような快楽主義へと埋没してゆく他ないのかもしれない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年10月27日
読了日 : 2022年10月24日
本棚登録日 : 2022年10月20日

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