この本を読了した日、父が亡くなった。秋頃から寝たきりになり、介護が必要だったとはいえ、当日の夕方までは容態も安定し、往診にいらしたドクターや看護士さんに「いっしょにお正月を迎えられそうです」と云って送り出したあとの急変だった。わたしも前日には心斎橋に暢気に買い物に出かけたりしていたし、弟一家は翌日戻ってくることになっていたから、ほんとうに唐突だった。平成22年12月31日のことだ。
父の体調がどんどん悪くなっていくのをみるうちに、いつの頃からか、死にどき、死にかたはみずから決められるのではないかと考えるようになった。みんな「そればっかりはわからない」というが、ほんとうにそうだろうか。よほど居心地がいいのか、誰もあっちから帰ってきたことがないので、それこそ確認しようもないが、生前「ぼくの一生も80年だったな」と云ってキッチリ年内にカタをつけ、四十九日は自分の誕生日という逝きかたをした父をみていると、望んでこの日を選んだのではないかという気がしてならない。
個人的には「このまま死んでしまうかもしれない」とおもったことが、これまでに二度ある。そのせいかどうか、あまり死を怖いとおもわない。いま死んだら部屋がごったがえしていて遺品整理するひとに申し訳ないとか、その割には『断捨離』とか『片付け』の本がいっぱいあってちょっとカッコ悪いな、とはおもうけれど。
だからわたしにとって死について考えることは、とてもふつうであたりまえのことだ。むしろ日々、考えているといっていい。万物が変化する世のなかで、たったひとつだけ変わらないのは、うまれてきたら必ず死ぬということ。これほど明確な答えはない。だからそこに向けてどう走っていけば自分にとっていい感じなのか、そのためにはどうすればいいのか。誰もが進学したりしなかったり、仕事についたりつかなかったり、結婚したりしなかったり、子どもを持ったり持たなかったり、会社を辞めたり、起業したり、独立したり、引きこもったりと、もろもろしたりしなかったりを望んで(たとえそれが消極的だったとしても)してきたように、死にぎわについても自分なりの選択肢を持っておきたいわけだ。となるともう、達者でポックリに限る。だからそうなるように生きたい。結局どう死ぬかについて考えることは、どう生きるかについて考えることなのだ。
国家には品格が必要だし、老いるにも才覚が必要とは、めんどくさい世のなかになったものだ。自分にそんな才覚があるかどうかはわからないが、老いるのは自然のなりゆきでも、老いぼれたくはない。お迎えが来るそのときまで、たとえどんな境遇にあろうとも活力は失うまいとおもう一方で、いざとなれば機嫌よく呼ばれたほうに向かいたいとおもっている。
死ぬまで生きます。
- 感想投稿日 : 2011年1月26日
- 読了日 : 2010年12月31日
- 本棚登録日 : 2010年12月31日
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