照葉樹林文化とは何か: 東アジアの森が生み出した文明 (中公新書 1921)

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  • 中央公論新社 (2007年11月1日発売)
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1960年代から筆者らが提唱してきた「照葉樹林文化」論の総説にして、老研究者が来し方を振り返った一冊。日本文化の起源論の一角という印象が強いが、長江文明なども絡めたAll東アジアの議論もされている。少ない手がかりから大きな議論を立てるというような昔風のところを感じた。

西はブータン、アッサムからインドシナ北部、雲南、長江流域を経て東は西日本まで至る照葉樹林帯。まず、その地に共通して見られる作物と文化を列挙していくことからはじまる。山中の焼畑で雑穀・豆・イモを作り(稲作については後述)、モチ、ナレズシ、ナットウ、酒、茶の類を好む。高床でハンギング・ウォールの住居に住み、蚕を飼い、竹細工・漆器を作り、歌垣の習俗や山岳信仰を持つ、などなど。たしかに日本文化と共通点が多い。

ついで、学説としての照葉樹林文化論の成立と展開を追う。この学説自体がわりと大雑把なもののようだし、淡々と思い出話的に時系列で語っていくこの部分はちょっと退屈。「未完の大仮説」と開き直られると「結局なにが言いたいの!」と突っ込みたくもなる。しかし一般的な関心の焦点は、稲作と日本文化の起源がどこか、になるみたいだ。

イネはジャポニカとインディカでは野生種の祖先からして異なるそうで、別個に栽培化されたようだ。ジャポニカの起源は長江流域説が有力だが、いつごろ畦畔を備えた水田による米モノカルチャーの稲作文化が本格的に始まったかは諸説ある。著者らは、水稲とも陸稲ともつかない未分化種が他の雑穀とともに粗放的に栽培されていた時期が、相当長かっただろうとの立場。現代の焼畑を営む人々を観察すると、水田の整備には労力がかかるため、焼畑農業では共有地であったのが、水田になると私有地になりやすいようだ。最初は一部の人間がやるだけだが、水田所有がステータスになって真似をする人が増える。

典型的な照葉樹林文化は今では雲南など高地中心に見られるので、照葉樹林文化=山の民の文化、との印象を持ちやすいが、当初においては長江流域など平地でも焼畑多種栽培の文化があったが、漢民族におされて山地に退いたとの見方ができる。このへんは何ともハッキリしないが。日本文化も、北方のナラ林文化、照葉樹林文化、稲作文化、支配層の文化が重層的に合わさっていると説明される。

最後に後輩の学者さんたちとの対談。結構やりあっている(部分的にかみ合っていないところもあるけれど)。野生種は多年草であったイネが、寒冷化のショック、人間による選別などの要因で、毎年実をつけるようになっていっただろうという仮説が興味深い。サトイモみたいに根で株分かれする植物ではこうした動きが起こらない、種子で増える植物ならではだと。あと、トウモロコシも東アジアきて急にモチ種ができたという話も。モチモチを好むのは照葉樹林帯の人だけなんだと(華北、インドの人だともうダメ)。

しかし、照葉樹林とは、お日様の良くあたる林のことだと思っていました。葉が厚手で光沢があるから、そう名づけられたとは知らなかった。学校でも広葉樹林・針葉樹林の別くらいしか習わなかったような気がする。

あと、本書ではスポットが当たっていないがトウモロコシ、サツマイモの展開が目を引く。新世界から持ち込まれて(歴史的には)僅かな時間のうちに、アジア中の辺鄙な山間部の焼畑へ広がっている。有用な作物の伝播スピードの速さに感心する。ここまでの速度でないにしろ、有用な作物・文化は古代にもそれなりの速度で伝播していたかもしれないと思うと、そのルーツを追うのは容易でなかろうと察せられる。

著者らがフィールドワークした地方は、テーマは少し違うが<a href="http://mediamarker.net/u/bookkeeper/?asin=4121018788" target="_blank">この本</a>の著者がフィールドワークした地方と重なる。たしか時代に10年〜20年くらい差があったので、「古事記の起源」では古い文化が急速に失われつつあるために、研究に残された時間がないことを懸念していたと思う。こっちの研究にも当てはまるかもしれない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 本・雑誌
感想投稿日 : 2018年11月5日
読了日 : 2012年2月8日
本棚登録日 : 2018年11月5日

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