言葉と死: 否定性の場所にかんするゼミナール

  • 筑摩書房 (2009年11月1日発売)
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感想 : 6
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面白かった。こんなこと言って良いものなのかわからないが。
哲学の限界とゆうか、最終地点、終末はここにもう描かれているなとも思った。すでにあったのだけれども。

僕の考えとリンクするのは、内なる神、それはうちだけでなく、どこにでも存在するのだけれども。
その神の沈黙、無限、永遠、それから、人間の良心と否定性、詩、声、言葉と表象されることは、理論でありながら人間であり、言葉を発しながらも動物的であることからの記憶であり、記録であること。
それは、言葉と声に表出され死であること。
死が常にあること、
だから、なぜか不安に、恐怖にあることが生じるのは納得する。
この本は個人個人の現在、今の、今、この魂の本性をあぶりだしたものだなと思う。
それは、常に虚しく、苦しい、不安であり、恐怖が常につきまとう孤独だ。
現代は言葉の表象が優位に立ってポップの音楽のように、安定した社員の職業のようにうやもやにしながらも孤独を抱える、ヘンテコな人間のありようを思い浮かべた。

ただし、これまでの本、哲学、このような西洋的な本はさらに次に発展しないといけないとも思っている。
個人の個人の魂のありかを探すのだけでは今までと何ら変わらない。
もっと、この世界に与えられることや、絶対的に服従を自然に課されてはいても、自由であること、そして、守られていることとゆう、この自己の周りの他者、この世界に目を向けないといけない。そこから哲学をした時に、おそらく、インドの哲学のようにさらなる深淵を極めた、人間らしい哲学へと変貌するだろうと思う。
神秘の世界を信じるだろうか。例えば先祖に守られることだったりすることは、単なる迷信なのだろうか。私はそんなことはないと思っている。
何か人間に学ばせようと、知らせようと気づかせようとしているところがこの世界にはある。それぞれがそれぞれに学び、知ろうと、人生はそうあるように思われる。それは多様に満ちている。
そこを、単なる人間らしい思い込みだと片付けてしまうのだろうか。
なるほどなと今思った。宗教は、哲学と対置する。
宗教的な観念を哲学から知ろうとすることに、西洋的な哲学の真の完結があるように思う。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2017年11月5日
読了日 : 2017年11月5日
本棚登録日 : 2017年11月5日

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