日本辺境論 (新潮新書 336)

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  • 新潮社 (2009年11月16日発売)
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内田樹(1950年~)氏は、東大文学部卒、東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了、東京都立大学人文学部助手、神戸女学院大学文学部助教授等を経て、神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学人文学部客員教授。専門はフランス現代思想。武道家でもあり、合気道凱風館館長、合気道七段、居合道三段、杖道三段。現代思想、身体論ほか、幅広いジャンルでの著書多数。
本書は、「日本人固有の思考や行動はその辺境性によって説明できる」ことを説いた、いわゆる内田版・日本文化論で、2010年の新書大賞を受賞した。
私の理解をラフにまとめると以下である。
◆日本人は、歴史的に自らを中華思想コスモロジーの中の「辺境」と位置付けてきたため、ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」があり、それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのかという、その距離の意識に基づいて思考と行動を決めるというメンタリティが染みついている。従って、「日本文化」とは、制度や文物そのものにあるのではなく、制度や文物が新しい別のそれらに取って代わられるときの「変化の仕方」にあると言える。それ故、日本人のふるまいの基本パターンは、「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」態度に成らざるを得ないし、日本とはどのような国であるべきか、というような問いに対しては思考停止に陥る。
◆上記の「起源からの遅れ」という構造特性は、悪く出ると「虎の威を借る狐」(狐は、自分の言葉で語る意見を持てない)になるが、良く出ると「学びの効率の良さ」を生む。「学び」の基本は、学ぶことの理由やメリットを予め問うことなく、まず学ぶことであるが、日本人は、その構造特性ゆえに、そうした問いを一時的に留保して学ぶことができ、最高の効率で学ぶ技術を身に付けている。それは、武道・茶道・華道などの「道」を究めるためにも、宗教的成熟を果たすためにも有効性を発揮した。
◆また、日本の宗教や武道では、その構造特性に内包される時間的な受け身の姿勢(私たちは常に、「呼びかける者」ではなく「呼びかけられる者」として存在する)を克服するため、「機」という概念を生み出した。「機」とは、時間の先後、どちらが先手でどちらが後手か、どちらが能動者でどちらが受動者か、のような二項対立を消してしまうもので、これにより、「学ぶが、遅れない」「受け入れるが、後手に回らない」というような、「時間意識の再編」を形式的に実現した。(この、「機」について書かれた部分は少々難解である)
◆日本語は、もともとは音声しかなかったものを、大陸から入ってきた漢字と漢字から発明されたひらがな・カタカナで表記するようになったが、その際、外来の文字を「真名」(=正統な文字)、土着の音声言語を表記した文字を「仮名」(=暫定の文字)と呼んだ。この二項対立的な発想は、漢語とやまとことば、文語と口語、建前と本音、男性語と女性語など、あらゆる言語的な層において見られるが、これは、外来の概念を「正嫡」として歓待し、土着の概念を「庶子」として冷遇するというふるまいから生じた、辺境語的構造である。
そして、著者は、このような日本の国民的特性が「いい」ものか「悪い」ものかという発想自体に意味はなく、まずは、日本人がそうした特性を持っていることを認識することが大事なのだ、として結んでいる。
私はこれまで、本書の冒頭で引用されている梅棹忠夫『文明の生態史観』ほか、いくつかの日本人論・日本文化論などを読んできたが、それでもなお、著者が「新味があろうとなかろうと、繰り返し確認しておくことが必要な命題」という本テーマは、興味を惹くし(それ自体が「辺境人」的性向なのだそうだが。。。)、面白いものであった。
まずは認識すること、そして次には、それを活かすため、或いは補うために、どのような言動をするべきなのかを、自ら考える必要があるのだろう。
(2022年7月了)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年7月19日
読了日 : 2022年7月31日
本棚登録日 : 2022年7月18日

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