私はノートパソコン1台を持つだけで、携帯電話やスマートフォンなどコミュニケーションの類の機器を所持していない。「何故?」とよく聞かれるが、「私には友達が1人もいないから必要ないのだ」と答えることにしている。実際のところ、これらの機器は、単に人間同士の絆を結び様々な情報を伝えあうだけでなく、商品の購入や多岐にわたる手続きなど、現代の社会生活上なくてはならないものになっている。それでも私は「いらない」と言う。今使っているPCにしても、1年ほど前に、両手首先、両足首先がマヒして運動機能が低下したため、キーボードすら従来のように容易に打てなくなってしまった。
そのうえ、半世紀ほど人生を共にしてきた妻が、私への介護疲れから神経を病んで、家を出て行ってしまった。高齢の私は目下のところ、食事やトイレ、衣服の着替えなど人が生きていくうえで必要不可欠な最低限の生活を自身で確保するだけで精いっぱいなのだ。
『自分は泣き、 判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。 いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人という刻印を額に打たれる事でしょ う。
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。』
(太宰 治. 人間失格 (p.233). 青空文庫. Kindle 版.)
私は、小説『人間失格』の主人公と、一生の流れは異なっても、「人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」というゴール地点が同じになってしまった。人間とは何ぞや、その存在理由はいずこにあるのか。人生の目的とは。すべてが虚しい問いかけで、答などありようはずがない。探求しようとする気力すらおきない。
この小説『人間失格』は、三つの手記からなる。
第一の手記は、私が初めて太宰治を手にした中学生未満の頃の主人公が描かれている。この頃の私は、この世には「私」という自我だけが存在し、私以外の人や物は私の存在を脅かすためだけに壮大な芝居をして見せてくれている、と考えていた。真剣に。その得体のしれない大仕掛けの芝居に対して、特に抵抗するわけでもなく、太宰が演じた「道化」と正反対の「優等生」の役を選んだ。つまりテストの問題の答えは、何が正しいかではなく、出題者が求めている答を察知して書き写した。自分の心の内は全く別の答を指し示していてもだ。
私の少年期は、真の自我を意識した自分自身と、自分以外の世の中との折り合いをうまくつけるために編み出した(太宰の言う)「道化」の生活、それがいい子、つまり「優等生」の生き方だった。この作品を初めて読んだとき、小説『人間失格』に共鳴した大切な核心部分だった。
第二の手記は、道化という演技が見抜かれそうになり、その恐怖から酒、たばこ、淫売婦、左翼思想へと傾き、混乱した精神状態から人妻との心中未遂事件を引き起こす。私は、といえば、「優等生」というより、太宰の「道化」をより深化させた、演劇の「役者」の世界へとのめり込みはじめた。
役者の表現行為を「虚実皮膜」と指摘したのは世阿弥だった。私はこれを、真実を表現するためにある虚構の世界こそが演劇であると理解した。私がこの人生で求める真実、善、美なるものは虚構である演劇の世界にこそ存在し得ると確信した。同時に周囲の大人たちの偽善に満ちた世間というものが、私にはたまらなくなり、「不意に人間のおそろしい正体を、 怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄を覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。(太宰 治. 人間失格 (p.20). 青空文庫. Kindle 版.)」
先日、テレビ番組で、あいみょんの甲子園ライブコンサートのメイキングを観た。もともと大好きなシンガーであったが、彼女は中学・高校のころから、シンガーソングライターになることを目指し、学校の三者面談でそのことを告白したら、「何をバカなこと言ってる。そんなこと考える暇があったら勉強しろ」と言われ、高校を中退して、神戸の自宅近くの河原で作曲したり、東京に出てきてからは狭い借家に引きこもって創作活動を続けたという。想像を絶する孤独感にさいなまれながら、必死に自分を生きようとした彼女に私は胸中、こみあげるものがあった。
その私はというと「役者」になりたいと公言したものの、親や教師に反対され、言い含められ、幼いころからの「優等生」ぶりが前面にでてきて、うやむやな変な青年期を過ごしてしまった。さらに加えて、母親が病気で余命半年とつげられると(母親は半年どころか、30年余り長生きしている)、優等生の上塗りで、Uターンしてそれなりの会社に就職して、リタイアするまで勤めてしまったのである。
「恥の多い生涯を送って来まし た。(太宰 治. 人間失格 (p.10). 青空文庫. Kindle 版.)」
恥の多い生涯を送ってきたのは、『人間失格』の主人公よりも、むしろ私のほうだ。リタイア後、人生最後のチャンス。一途に「役者」を目指そうと、蜷川幸雄氏が提唱した高齢者の演劇集団に応募したが、初日を迎える前に他界し、その後の活動はコロナ渦で自然消滅。追い打ちをかけるように、手首、足首にマヒの残る珍しい病にかかって、演劇活動など夢のまた夢。私の人生は生物としての寿命が尽きる前に、私が私であることの証としての人生が、ジエンド。さすがにモルヒネなどに手をだすこともなく、せいぜいがちょっと多めの飲酒癖で、破滅的な女性関係に落ち込むこともなく、これでよかったのかどうかは分からないが、『人間失格』にある廃人同様ではなくとも、精神的には空っぽになってしまった廃人の人生を送っている。
ここまできて、「待てよ、恥のない生涯を送ってきた、または送っている人などいるのだろうか」と、自問自答してみる。多少の差はあっても、なにがしかの恥を経験した人生を送っているはずだ。高齢者がよく「わが人生に悔いはなし」などといっているが、それこそ嘘つきだ。胸に手を当ててよく内照してみよ。恥のある人生を送った人が「人間失格」だとすれば、人類の歴史上、合格した人間、つまり「人間合格」などありえないのではないか。
70歳を超え、太宰治『人間失格』の何度目かの再読をしながら、自分自身の人生を翻ってつくづくと考え直してみた。悔しいけれど、私も同様「人間失格」と気づいた。だが、失格する人生を歩むことこそが、「人間」でもあるのだ、と(自分を慰める言い訳ではないが)太宰治の文学から学んだような気がする。
もちろん、私の主観的な感想に異を唱える人たちが沢山いるだろうが……。そう願う。
- 感想投稿日 : 2023年1月21日
- 読了日 : 2023年1月8日
- 本棚登録日 : 2023年1月5日
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