ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生

  • 以文社 (2007年4月10日発売)
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現代思想はネットの時代にもう終わったと思っていた。デリダもフーコーもドゥルーズもサイードも死んだ今、何ができるだろう。けれど終わっていなかった。イタリアに残っていた。

ネグリの言葉は楽観的すぎて嫌いだった。単純というか未来に希望持ちすぎというか直情的というか、好みではなかった。ネグリと同じイタリアの現代思想家ジョルジュ・アガンベン。名前だけは知っていたけれど、いざ読んだら自分の趣向にぴったりとはまった。

アガンベンは、フーコー、ハイデガー、ベンヤミン、アーレント、デリダなどの思考の遺産をばらばらなままに放置するのを嫌い、先人の遺産をつなごうとしている。

例えば、生政治の問題について。フーコーは生政治、構成的権力の問題を論じたけれど、生政治のテーマを全体主義、アウシュヴィッツの強制収容所に適用しようとしなかった。アーレントは、全体主義を論じたけれど、フーコーの生政治の思想とアーレントの全体主義論はリンクしていない。また、アーレント自身でも、全体主義の批判的思考と、『人間の条件』や『革命について』で論じられた政治論は、結合していない。アガンベンは、これらばらばらのまま放置された先人の成果をつないで、新しい思考を紡ごうとする。結節点となるのは、アウシュヴィッツの強制収容所などで見られた<例外状態>の経験である。

フーコーは、近代になってから、政治権力が人間の身体、生を支配するようになったと考えているが、アガンベンは、フーコーやアーレントが理想化する古代ギリシア、ローマの時代から、政治は人間の身体を支配し続けていたとする。現代は、政治による生(バイオ)の支配が強くなったに過ぎないのだ。

古代ローマでホモ・サケルと呼ばれる存在がいた。ホモ・サケルとは、政治共同体の外部に存在する他者であり、聖なる存在でもあった。ホモ・サケルは、人間の法の外にあり、動物と変わらない。ホモ・サケルの生は、剥き出しの生身の体の生でしかなく、政治的に統治された生ではない。人間が、ホモ・サケルを殺害しても、罪を問われることはなかったという。政治権力は、法の外にある例外状態、ホモ・サケルを指定することで、逆に法の内にある政治共同体の結束を構築したと、アガンベンは分析する。

前近代において、政治の主権者は王だった。王は、自分自身聖なる存在として例外状態になりつつ、自分と同じく例外状態であるホモ・サケルを共同体の外部に作り出していれば、政治的に統御された生、臣民を統治できた。革命によって王が打倒された近代では、共同体の成員、国民全員が主権者となる。もう王も、ホモ・サケルもいない。すると、外部にあった剥き出しの生が、共同体の内部に入ってくる。法の外にあった動物的生と、法の内にあった政治的生が、近代では近接する。政治権力は、国民の体、国民の生を管理するようになる。

近代的国家の極限形態が、全体主義国家である。全体主義の政治では、生が政治となり、政治が生となる。総統の発言が、国民の総意になる。さらに全体主義国家は、自国民の外部に、剥き出しの生の管理場所を作ろうとする。それが強制収容所である。強制収容所では、法を度外視して、殺戮が行われる。強制収容所は例外状態なのだから、どんな殺人も肯定される。近代民主主義国家に暮らす人は、強制収容所で行われた生の扱いを見て、何故あんなひどいことが起きたのかと嘆くが、アガンベンは、近代民主主義に内在する原理に、強制収容所、例外状態が含まれていることを指摘する。

例えばアメリカでは、死刑囚に対して生命の危険がともなう新薬実験が行われる。実験は、死刑囚同意のもとに行われているというが、何故命の危険を伴う新薬実験の参加が、死刑囚に提案されるのだろう。死刑囚は、生の例外状態にあるから、死ぬ可能性のある新薬実験参加も妥当と判断されるのだ。民主主義の象徴のような国、アメリカが運営するグアンタナモ強制収容所でも、例外状態は見られた。

アガンベンは、「何故これほど残虐なことが行われたのか」と問うことに価値を見出さない。「何をされようと犯罪と扱われないほど、極端なまでに権利を奪われる状態は、どのような法的手続きによって可能になったのか」これこそ現代的な問いであるという。現代哲学必読書の1つ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 人文科学
感想投稿日 : 2010年8月29日
読了日 : 2010年8月29日
本棚登録日 : 2010年8月29日

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