社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)

  • 講談社 (2018年6月11日発売)
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5

 「社会はなぜ右と左に分かれるのか(ジョナサン・ハイト著)」で保守の道徳的源流として幾度となく引用されていたデュルケーム。そこでは、道徳がもたらす規制が人間をして協力的な社会の構築を可能にする、道徳の機能主義的な描写がなされていた。直後に読んだ「現代経済学の直感的方法(長沼伸一郎著)」ではデュルケームへの直接の言及こそないものの、現代資本主義の閉塞を打破する契機として、宗教や愛国心などの「大きな物語」による伝統的社会の保存の必要性が説かれており、デュルケームのいう紐帯としての宗教のアイディアとの共通点を感じた。こうして、永らく読もうと思いながら躊躇していた本書を読む機会がようやく到来したのだった。

 まず本書を読み始めて最初に目につくのは、先行するオーギュスト・コントとハーバート・スペンサーの社会研究への辛辣な批判だ。社会をひたすら記述的・方法論的に扱うことを良しとしていたデュルケームは、コントらの観念的・規範的な物言いを「予断」だとして断罪している。急速に進む近代化と進化論を背景に、人間の精神がいかに近代へと進化してきたかを通時的に論じたコントらだが、デュルケームにしてみれば、社会を「物」として直接扱うのではなく主観的な「観念」を議論の対象とすることが、いかにも隔靴掻痒なものに思えてしかたなかったのだろう。なお「物として」の社会とは直観的にやや理解し難い概念だが、第二章の犯罪と刑罰のアナロジーにあるように、概念の外的な現れとしての可感的な客観を指すものであるらしい。

 デュルケームの方法論の肝は、哲学がタイプとして、歴史学がトークンとして扱ってきた社会種を統合的に扱うことにあるようだ。まず最も単純な社会を基礎として、各社会の統合の度合いに応じて社会を分類する。そしてそれぞれの社会を科学的に説明する方法論として、予断に流されがちな目的論(「何のために」)ではなく、その機能(「何をしているか」)に基づいて社会現象を評価する機能主義が提唱されるのだ。個人的にはここでアリストテレスの始動因が持ち出されるのが興味深かった。

 社会を個人の集積とみなすスペンサーへの反論の中で、個人意識への外部からの圧力こそが社会の本質であると喝破するデュルケームだが、ここに宗教(カトリック)という重しを失った当時の社会に対する危機感が見て取れると思う。デュルケームによれば、全体(全体)は単なる部分(個人)の総和ではない。個人を超えた結合・連帯が社会を形成しているのであり、このことを「拘束」という形で保証していたのが例えば宗教などの外部性であったのだ。訳者あとがきではこのことを裏返して、社会的結合を志向する不断の努力こそが個人を社会に統合づける力であるとされている。
 
 デュルケームが活躍した19世期後半というのは、従来型のカトリックによる社会的統制が崩れ、資本主義経済によるコミュニティ解体が猛威を奮い始めた頃だった。そうすると、社会を統合する何ものかに対する希求の高まりという意味では、現在と当時は共通するところが多いのかもしれない。

 なお本書の訳としては岩波文庫版が定番とされているようだが、この講談社学術文庫版はこの手の翻訳としては驚くほどこなれていて読みやすい。訳出者の相当な苦労の賜物なのかもしれないが、僕のような初学者にとっては誠にありがたい話だ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年5月12日
読了日 : 2020年5月11日
本棚登録日 : 2020年5月11日

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