フランク・オコナー短篇集 (岩波文庫 赤 299-1)

  • 岩波書店 (2008年9月17日発売)
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感想 : 17

フランク・オコナー
昨夜帰宅してからフランク・オコナー短編集の最初「ぼくのエディプス・コンプレクス」を読む。フランク・オコナーはアイルランドのチェーホフとも称される短編の名手。どれどれ(表紙の絵は同じアイルランドのスカリーという画家の作品。訳者は手触りが共通しているという)…
ぼくは布団から足を突き出して、それぞれを右足さん、左足さんと呼び、その日をどう過ごすべきかふたりがいろいろ話し合っている、という状況を想像した。
(p10)
この短編はオコナーの自伝的要素もある、フロイトのエディプス・コンプレクス理論をややパロディした作品。戦争(第一次世界大戦)中で父親不在になり、母親を独り占めしていた少年…しかし戦争が終わり、父親が帰ってくる。背景はともかく、微笑ましい作品。
(2016 01/24)

オコナーの視点
昨夜はフランク・オコナー短編集から3つ。最初の作品もそうだったけど、視点(語り手)を誰にするかどんな語り口にするかで、話の感触がだいぶ異なる。「国賓」は戦争についてまだ未知な青年を語り手にすることで、平和的共同体の星雲みたいなものから、急に敵味方が別れるという衝撃を読者も味わう。「ある独身者」はこれまた若者を語り手→聞き手にして、そこで語っている「独身者」が出会っている謎をまた違った角度から見る。「寂しげ…」は語り手は存在せず作者の視点だが、少し昔話的な語り口(男は…、女は…、とか)で読者も登場人物を戯画化して離れて見るような感じ。
でも、この「寂しげ…」という短編、解説の言うように明るい終わり方なのだろうか。最後の医者に金貨を払っている場面が引っかかる。最初女が計算して男に会うことにしたという点、叔父との事件があやふやにしか提示されない点など、ひょっとしたらこの後、かなり怖い結末が控えているのかも。
(2016 01/26)

最初の懺悔、最後の懺悔
オコナー短編集は5、6番目の作品「はじめての懺悔」と「花輪」。両作品ともアイルランドに根付くカトリックが主要テーマとなる作品。
「はじめての懺悔」が「ぼくのエディプス・コンプレクス」と同じ、少年からみた微笑ましい短編なのに対し(懺悔台って登れる?)、「花輪」は死んだ神父の友人だった二人の神父の会話からなる。大人だから何もかも明瞭で落ちついているのだろう、と思えばさにあらず。二人の神父と亡くなった神父、それぞれに自分も相手もわからない謎のことが多く、それを探し求めていく会話はこれまた懺悔と共通する。謎の真ん中には赤い薔薇の花輪。
この花輪はひとりの神父の、その人生の根本にある謎を象徴しているイメージだと思えた。
(p176)
(2016 01/27)

「ルーシー家の人々」より
フランク・オコナー短編集より「ルーシー家の人々」
たまには?人物描写からの引用。
鼻からも、耳からも毛。頬骨の張ったあたりにも毛が生え、小さなキャベツ畑みたいに見えた。
(p231)
どんな顔なのか興味津々…
それはともかく、話は兄弟のいさかい話(上記引用文は弟の方の描写)。どうして兄は弟の死に目にまで行かなかったのか読んでいるこっちもよくわからないのだけど、この作品に伝えたいことがもしあるとしたら、他人(家族内でも)をほんとに理解するその不可能性なのだろう。
それを前提に背負ってそれでも小説を書かなければならない小説家というのも業な職業だ…
あと3編。
(2016 01/28)

「法は何にも勝る」と「汽車の中で」
今日読んだフランク・オコナー短編集は「法は何にも勝る」と「汽車の中で」。後者の最後の方に出てくる密造酒作ってるダンって前者の主人公のこと?珍しく人物再登場技法?と思ってしまったけど、姓違うし関係なかったです。
さて、前者のダンも後者の被告の女もなんだかたいへんなことをしてしまった人ということが最後にわかるという短編。こういう暗い過去を引きずる人というテーマはオコナーお得意の一つ。
彼女を捕らえ、奮い立たせ、それから脇へと放り出した、あの力は何だったのだろうとつくづく思った。
(p310)
「汽車の中で」の最後のページ。彼女の過去に最大限近づいているのがこの文章。今と比べて昔は息抜きの種類があまりなかった。だからガスも抜きにくい…こういういざこざ?も起きやすい。
(2016 01/29)

雨と海とマイケルの妻
というわけでフランク・オコナー短編集の最後の短編「マイケルの妻」を今読み終えた。謎は謎のままにしておく、視点は裏側からにして、視点の秘かな移動もある、というオコナーの短編の作法がこの短編に最大限に生かされている。短編世界の中心にあるべきマイケル自身はここには不在、大西洋の向こうアメリカにいる。そのニューヨークからマイケルの妻が実家にやってくるが、名前は一切出てこない。マイケルの父母のトムとメア、それからトムの姉妹ケートとジョアン、それとマイケルの妻。これだけの小宇宙に読み進めていくうちに惹かれていく。
この短編の重要な背景である、マイケルがアイルランドを出た理由、それからニューヨークでのマイケル夫妻の生活と特に妻にある腹の傷。これらの謎はちょっとした節に触れられるだけ。この短編で一番巧いなあと思ったのは、マイケルの妻についての不信感というか違和感を持つのが、メアからトムへ移っていったというところ。
最後はオコナーにしては幻想的な描写が。マイケルの妻の寝言をトムが聞く場面。
気でもふれたかと思うようなこのわけのわからないひととき、マイケルが向こうの部屋にいるような気がした。何百マイルもの波と嵐と闇を越えて、生身の身体で。マイケルの若い妻の言葉にならない願いが、マイケルを自分のそばに呼び寄せたかのようなのだ。
(p345)
謎といえば、トムが何故か雨が止むとがっかりするというのもよくわからない。その割りに嵐になると怖がるのだから、単に作物の為の雨待ちというわけでもなさそう。雨とそれから海。最初のマイケルの妻を家まで馬車で送る場面で、入江に見え隠れする海の描写があったけど、そこから離れても海はこの短編の常に真ん中にいる。
晴れ渡った空の下で、すべての折りたたみ戸を開け放った大きな館のように海が広がっている。
(p316)
その日は陰鬱な天気で、雲がたれこめていた。ときおり、激しい雨がきらきらと光を反射させながら網のように海の上に広がった。
(p343)

海…この村とマイケルの間に広がる海は…謎そのものであるかもしれない。
(2016 01/30)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 東京書庫箱2
感想投稿日 : 2016年1月31日
読了日 : 2016年1月30日
本棚登録日 : 2015年11月22日

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