ホモ・サケル。文字通りの意味は「聖なる人」だが、古代ローマ文献によれば、それは二重の意味で排除された人ということになる。まず、その者を殺しても罪に問われないという社会的法的な意味で排除されている。そして、その者を供犠によって殺してはならぬという宗教的意味でも排除されている。人間社会は法律および宗教によって規律が保たれたものであるから、そのいずれからも排除されるというのは、人として生きるな、と宣告されたも同然であり、端的に村八分、永久追放を突き付けられた状態といえる。人間として生きられない存在という意味で「聖なる」が冠せられるわけだ。
その起源は、古代ローマの父権の絶対性にある。父親は、自ら認知した息子をいかようにもでき、殺すことすら可能な絶対的権能がある。この折衝与奪権にこそホモ・サケルの元型がある。
この絶対的権利、折衝与奪権の前にむき出しにされた生が、近代において注目された。それが生権力である。
本書を読んでいるとき、入管で殺されたといっても過言ではない、ウィシュマさんの事件で世間は持ち切りだった。まさに、このウィシュマさんこそ、むき出しの生そのものであり、生身の人間をいかようにでも扱って構わない、という薄汚い意識丸出しの日本の旧内務省的権力層が抱える闇そのものである、と感じた次第だ。
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- 感想投稿日 : 2022年4月3日
- 読了日 : 2021年10月7日
- 本棚登録日 : 2021年10月7日
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