1★9★3★7(イクミナ)

著者 :
  • 金曜日 (2015年10月22日発売)
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本棚登録 : 126
感想 : 15
5

辺見庸さんの書物は詩と幾つかの小説以外は全て読んでいるが、もの食う人々を超える代表作がようやく産まれたと、長年のファンとしては凄く嬉しいし、感慨深いし、しかも下手したら今後仕事が出来なくなるかもしれない危険なテーマでそれを成し遂げられたことに、同時代者として畏敬の念を抱いた。
だからこそ、今回は単なるレビューではなく、さらなる代表作を祈願し、次回作についての期待を述べたい。

私は辺見庸さんが学生運動をされていた頃の個人史をー学生運動史ではなく、辺見庸さん固有の、ただ一人の個人運動史ー是非次の作品として読みたい。

なぜ読みたいか?
それは辺見庸さんが、現在の自分を含めた若い人たちの反安保法案の戦いをぶった切る言葉の数々を、かなり力を入れて放たれている現状への同時代者としての違和感と、その違和感をなんとか埋めたいという思いがあるからである。
違和感の理由は、自分の側にも責任はあるのだろうが、それらの批判の言葉を裏付けるべき、辺見庸さん自身が過去の体験から学ばれた記憶や記憶に基づく言葉が、辺見庸さん自身の口からいっかな漏れ伝わってこないことに第一にある。少なくも私にとってはそれが故に彼が差し向けてくる批判の言葉が、どうにも突き刺さって来ないのだから。
せっかくなのでぶちまける。
同時代者なのに、お前は誰の立場で批判してんねん。お前はお前じゃないのか。お前の批判は高みから過ぎるわ、ボケ!!
と胸ぐらを掴みたくなることしばし。(福祉の仕事についてる私としては老人に優しくせざるを得ないが、辞めたら殴り飛ばすかもしれません)

いや、徴しはあったのだ。実際読んだし。哀しいかな。書物ではなくネットで。

今更言うまでもなく現代という時代は薄ら寒いほどなんでもググれば外形だけは分かってしまうのだが、彼が書いてはいつの間にか消してしまうブログの身辺録の中にそれらを示す痕跡のような物をググった事が幾度か、私にはある。

その中のある個人名をググった時に辺見庸さんが学生運動をされていた頃の友人が内ゲバなのか権力に殺されたのか、とにもかくにも酷い死に方をされた事実を知った。

辛かった。何が辛いって、そんな事実をググるなどという非人間的な営みを通じて知った事が苦しかった。自分の軽さと現在の軽さにいたたまれなくなった。
それから幾日も経ずして実父を喪ったのだが、
今回この書物を読んで、全共闘世代であった父に、恐らくは学生運動などしなかったはずの父に、なぜ自分は、多くの同世代の人間が殺したり殺されたりする中、あなたは生き延びたのか、
死んでいった者たちをどう眺めていたのか、
傷みを覚えることはあったのか、あったとして、その傷みはどうやったら治癒するのか、そこに自分がかかわるよすがはあるのか。
聞きたかった。聞くべきだった。
そして聞いてほしかった。
お前は、反安保法案の戦いの中でもしも仲間が殺されたり、殺したり、自身がそうなるような状況に陥った時、どうするのか?

そしてこう答えたかった。
そのような問いをするのもされるのも、これを最後にするために、一緒に考えたいのです、と。

幸いにまだ辺見庸さんは生きている。

辺見庸さん、生き延びる術をください。
僕は僕自身の手でそれを獲得出来んのです。
甘えかもしれんが、どうかお願いします。

例えネットであろうとも消さんでください。
服部多々夫とは誰なのか?
なぜ、若くして死なねばならなかったのか?
その方が亡くなられた時、あなたは何処で何をされていたのか?
その死を私は傷み、悼むことは出来るのか?
その死を無駄にせず、共に生きる道を、共に生きる資格が私にはあるのか?

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2016年1月9日
読了日 : 2016年1月3日
本棚登録日 : 2016年1月3日

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