J・S・バッハ (講談社現代新書)

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  • 講談社 (1990年10月17日発売)
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国内のバッハ研究の第一人者である、礒山雅氏のバッハ評である。著者は『バッハ-魂のエヴァンゲリスト』でバッハの生涯と作品等について年代を追って論じており、それをよりコンパクトに、そして新しい研究成果を織り込んで記されたのが本書である。

バッハとジャズの親近性について。リズム、メロディ、ハーモニーを音楽の三要素といい、リズムは音楽の時間を構成し、ハーモニー(和音)は音楽の空間を構成し、メロディ(旋律)は両者の接点に生まれる音楽の”顔”のようなものである。ごく単純化して言えば、リズムは音楽の生命力を、旋律は音楽の美しさを、ハーモニーは音楽の深さを表現すると言えるだろう。一般には、旋律に関心が寄せられるが、音楽に対して最も根本的なものはリズムであり、これがなければ音楽は成立し得ない。

天才の音楽は、三要素のいずれもが卓越しているものであるが、敢えて言えば、バッハの音楽で特に際立っているのはリズムだろう。これに対し、モーツァルトでは旋律が、ワーグナーではハーモニーが傑出しているという。バッハがとりわけリズミックに感じられる理由の一つは、通奏低音と呼ばれるバス声部が、たえず『下から』動き続けているためである。

当時の音楽に広く共通することだが、バッハの音楽には、踊りのリズムが浸透している。組曲であれば、各楽章が舞曲だからそれも当然。だがコンチェルトやソナタのアレグロやアンダンテにも何らかの踊りのリズムが基礎になっていることが多い。抽象的に見えるフーガにも、しばしばジーグなどの舞曲のリズムと結合される。当時の人はそれを恐らく身体で生き生きと受け止めたはずである。

しかしその生命力は、ロマン派の時代以降、目に見えて衰えていった。複雑なリズムがますます好まれる一方で、バッハの楽譜が抽象的に解釈され、過度に荘重に、感情をこめて演奏される傾向が生じたからである。戦後、いわゆるバロックブームがやってきたとき、人々の耳にいかにも新鮮に響いたのは、重さから開放された溌剌たるリズムだった。例えば、1,960年代のカール・リヒターのバッハは、クレンペラーやカラヤンが大オーケストラで響かせるバッハに比べてリズムがはるかに躍動していた。

現代人にとってジャズは踊り感覚のリズムの原点のようなものであり、ジャズのスウィングするリズムがバッハに導入されるとき、バッハの音楽はかつての踊り感覚をよみがえらせる。スウィングはすなわち音符の長さを不均等にし、本来のビートからずらして、緊張と開放を繰り返すやり方である。それがバッハに効果的だということは、バッハのリズムが決して機械的ではないことを物語っている。


バッハは音楽を人間同士が同一平面で行うコミュニケーションとは考えていなかった。バッハの音楽においては神が究極の聞き手であり、バッハの職人としての良心は、神に向けられていた。バッハがオルガンに向かうとき、または5線紙に向かうとき、理想的聴衆としての神の存在をどこかで考えて、気を引き締めていたのではないだろうか。

著者は、優れたバッハ演奏の条件として、次の4つのポイントを挙げている。

1.旋律を歌うより、リズムの生命力を重んじること。バッハのリズムが生きた『踊り』の感覚に由来していたので。

2.中声部のふくらんだ厚い響きでなく、外声のくっきりでる透明な響きを基礎とすること。通奏低音に支えられた線的な構成がこれによってクッキリ見えてくる。

3.テンポ・ルバート(流動するテンポ)によらず、拍節内に置かれたアクセントで、表現を引き立てること。そのアクセントを生かすためには、適切なアゴーギク(わずかな速度の揺れ)が必須である。

4.長いレガートを避け、短いアーティキュレーションを積み上げること。バッハの書いたディテールの意味はこれによってしか明確にならない。

以上の4点は最近の古楽器演奏では既に常識となっている。だが、ロマン的なバッハはまさにこの点で正反対であった。だが、20世紀におけるバッハ演奏の歴史は、上記の4点を実現する方向へと進んできた。

ミュンヒンガーはバッハの音符をすべて均一に、それも頑固に均一に演奏している。その結果、楽譜をあたかも紙のまま音にしたような、妙に平面的な演奏が出来上がっている。ミュンヒンガーは楽譜に忠実という色褪せたスローガンを今日まで引きづり続けたのである。

バッハの楽譜は全ての音符を均一に演奏したのではダメである。アーノンクールの言葉を借りれば、それはフランス革命以後の発想であって宮廷文化が華やかなバロック時代の音楽にはふさわしくないと言うことになる。

バッハの楽譜には幹になる音と副次的な音があり、緊張した不協和な音と安らいだ協和の音とが対立している。また、表記より長めになって生きる音と短く飛び跳ねるべき音とがあり、楽器上で良く響く音と、曇るがゆえに味のある音とがある。それらが相互に意味深く使われ、緊密な複合体をなしているのがバッハの音楽なのである。

こうした音の差異を的確に表現するには、正しいアクセント付けと細部表現のメリハリが必須である。『均一』はそれを無視することに他ならない。グスタフ・レオンハルトは、その癖の中で『音の差異』を的確に表現し、『不均等の美学』を探求している。

チェンバロは、爪が玄を引っかいて音を出すという機構上、タッチによる響きの差がほとんど付けられない。このままでは味気ない音楽になってしまう。このため、チェンバロ演奏では、タッチの微妙な時間的ずらしによって、すなわち入りの間合いをはかったり、重音にわずかな前後関係を与えたりすることによって、質的な『音の差異』の効果を得ることができる。それによって、演奏にはバッハに欠かせないアクセントの効果が生まれるし、思いもかけぬデリケートで深い味わいがかもしだされるのである。チェンバロの表現の含蓄は、一にこの『不均等』の実現にかかっているといっても過言ではない。レオンハルトはこうした『不均等の美学』をチェンバロで実現した偉大な演奏家として名を馳せたのである。

『音の差異に基づく不均等の美学』は、『語り』の要素と極めて近いところにある。バロックの音楽が、『歌う』音楽ではなく、『語る』音楽であるという主張は、当時の楽器の構造からも理にかなっている。『語るバッハ』を目指すとすれば、その演奏は音の細かな差異を鋭敏に捉え、アーティキュレーションによる区切りを明確に積み重ねてゆくものでなくてはならないはずである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 音楽
感想投稿日 : 2014年10月20日
読了日 : 2014年10月20日
本棚登録日 : 2014年10月20日

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