自由とは何か (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社 (2004年11月19日発売)
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 今でこそ自明の理として扱われる「自由」について論じた本。思えば「自由」という言葉ほど頻繁に人の口の端に上るのに、それが何なのか論じられない言葉も少ない。

 「自由」を考える上での最大の難問は、ディレンマに陥りやすいこと。例えばアメリカが「イラクの文明化」を掲げて同国の自由のために干渉したことは「自由の強制」であると言える。「自由」を押し付けるのだから自己矛盾である。

 また、「○○への自由」という積極的自由を徹底的に追求すれば全体主義に、「◯◯からの自由」という消極的自由を追求すると、自己中心主義や排他主義に陥りがちである。○○に入るのは個人の情緒を反映した価値観であり、価値観の相対化を図るリベラリズム(自由主義)に基づいて考えると、何でもかんでも「どっちもどっち」になってしまい、自由の判断の妨げる。

 「自由」という概念は、近代ヨーロッパにおいて自由な個人が国家や社会に先立つものとして「発見」されたことに根差しています。そのため近代国家は国民の安全に対して当然に責任を持ち、権力を行使して自由な個人を支えるものと理解される。

 数年前にイラクで三邦人が人質となった事件があった際、「自己責任論」が人口に膾炙しましたが、著者は国家が「自己責任」を押し付けるのは国家が国民に対する責任を放棄したことに他ならず、そのことによって国民の自由を蹂躙することになると主張する。

 国家と個人との関係を考えれば、政治家や公務員が自己責任論を主張することは自らの責務を否定する自家撞着である。

 現代人は「自由への倦怠」に陥っているとされる。これは昔のように命懸けで抵抗すべき政治的抑圧や道徳的規範がなくなり、自由に対するイメージも稀薄化したことが発端である。

 現代のリベラリズムは「多様性を保証するための平等な権利としての自由」を中心としているが、それでも自由への倦怠は止まらない。寛容と多元性を志向するはずの自由というものは、飲めば飲むほど喉を渇かす塩水のように、求めれば求めるほど不寛容と一元性へと収斂していく。

 そのような自由のパラドックスをどのように克服すればいいのか。著者はそれを多様な「義」を承認することであると主張する。アメリカ軍もイスラーム過激派も自らの「大義」を唯一絶対と考える独善性を孕んでいる。

 そのため両者の調停をするには、互いの「義」を承認しないわけにはいかない。自分の確信も相対的なものの一つに過ぎないことを自覚することが多元性につながる。リベラリズムもその例外ではない。

 「自由」の起源やリベラリズムの抱える矛盾や難問について考える上で必読の書。自由が尊いのは言うまでもないが、それよりも寛容さや多元性を尊重したいと改めて思った。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 新書
感想投稿日 : 2011年6月5日
読了日 : -
本棚登録日 : 2011年6月5日

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